「鉄腕アトム 宇宙の勇者」©手塚プロダクション
「鉄腕アトム 宇宙の勇者」©手塚プロダクション

 クリエイターの持つ強烈な作家性にあらためてスポットを当てる「レトロスペクティブ部門」は、第1回から続く映画祭の目玉の一つだ。大友克洋、高畑勲、今敏と来て、なぜ今、手塚治虫だったのか。この3連休で、彼の手がけたアニメーション映画&TVシリーズから短編を含む全10作品が一挙上映されたシネウインドで、その意味を考えた。(アニメライター・鈴木長月)

 最初に聞いた時点で「なるほど、そう来たか」と、すぐさま得心がいった。その創設に尽力された堀越健三さんが亡くなってから初めて開催される映画祭。中心スタッフが抜けたことで、期せずして運営体制も大きく刷新されたと聞いていた。そこへ来ての手塚治虫は、まさに「原点回帰」にふさわしい。“マンガの神様”にして、その後の日本のアニメーションの源流をもつくった大レジェンド。「マンガ・アニメのまち」を標榜するここ新潟市で、アニメーションに特化した映画祭で開く意味をこれほど体現している人物もいないだろう。

 そしてもちろん、その偉大な作家性にスクリーンで触れられる、というのも、このサブスク配信全盛の時代には貴重な機会。ミニシアターの草分け的存在である東京・渋谷の「ユーロスペース」を拠点に、後進育成にも積極的に取り組まれてきた亡き堀越さんにとっても、そうした「名作にじかに触れられる」機会の創出こそが、映画祭立ち上げの大きな動機の一つでもあったはず。いつでもどこでも作品へとアクセスできる“文明の利器”は、確かに便利で素晴らしい。だが、そこでは決して味わえない“思い”もまたあるのである。

手塚治虫レトロスペクティブでは、息子、眞さん(左)が父の作品について語った(21日・シネ・ウインド)

 映画とは、人が人を思って“思い”をつむぎ、それを重ね伝えていく文化の結晶だと、ぼくは思っている。シネウインドのようなミニシアターのスクリーンでする映画体験がとりわけ特別なものになるのも、あまたの上映作品がただ機械的に消費されていくシネコンにはない、届ける側の“思い”がそこに乗っかっているからだ。人々の“思い”とともに大切に受け継がれてきた手塚治虫の作品たちに、映画祭としての“思い”を新たに乗せて、それを届ける。これぞ「レトロスペクティブ(=回顧)」のあるべき姿だとも言えるだろう。

 映画祭も第4回を数えて、若手人材の育成を掲げる独自のプログラム「アニメーションキャンプ」もすっかり定着。今回からは、コンペティション部門に新たに設けられた中編対象の「Indie Box」に選出されたクリエーターたちも多数、新潟を訪れている。次代を担うべき若い世代が、昨年40周年の節目を迎えた老舗の小さい映画館で、手塚治虫を“発見”する。そんなすてきな機会をつくりだせている、というその1点においても、映画祭としての意義は十分ある。「新潟で出会った」という“思い”は、きっと一生の宝ともなるはずだ。

 手塚治虫自身に、新潟との接点はそこまでない。「おけさのひょう六」という佐渡を舞台にした短編を描いているぐらいだ。だが、今回ゲストとして来場した息子の眞さんは、新潟が生んだ作家・坂口安吾を敬愛し、名作「白痴」を新潟ロケで実写映画化するなど、その関わりはかねてより深い。なにより、赤塚不二夫ら多くのフォロワーを育て、その後も多くの漫画家が新潟から巣立つことになっていったのも、他ならぬ手塚治虫という存在があればこそ。「マンガ・アニメのまち」も元をたどれば、やはり行き当たるのは“神様”だ。

手塚治虫の創作姿勢などを語る息子の眞さん(21日・シネ・ウインド)

 そして、この映画祭にもその名を冠した賞があるほど、アニメ業界にとっては重要な東映/東映動画(現・東映アニメーション)の初代社長・大川博氏の存在も合わせて考えれば、新潟の街もまた、アニメの原点として欠かせない。映画祭の運営に携わるスタッフのみなさんはそんな大仰なことはきっと言わないだろうけど、世界に冠たる日本のアニメの今があるのは、まぎれもなく「手塚治虫と新潟のおかげ」。後々にまで“思い”を伝え継いでいくためにも、新潟のみなさんにはぜひその事実をもっと誇ってほしいと、わりと本気で思っている。

<著者プロフィル>
◎鈴木長月(すずき・ちょうげつ)1979年生まれ。大阪府出身。東京都在住。出版社勤務を経て、フリーランスとして独立。プロ野球からサブカルチャーまで守備範囲は広く、アニメ専門誌「アニメージュ」(徳間書店)などにも寄稿する。妻が胎内市(旧中条町)出身で、新潟は自称「第2の故郷」。