弥彦村で撮影された大沢家の家族写真。右から孝司さん、母房さん、父福一郎さん、次兄茂樹さん=1960年ごろ
弥彦村で撮影された大沢家の家族写真。右から孝司さん、母房さん、父福一郎さん、次兄茂樹さん=1960年ごろ

 1974年2月24日夜。新潟県佐渡農地事務所の若い職員が突然、姿を消した。新潟市西蒲区出身の大沢孝司(たかし)さん=失踪当時(27)=。家族に失踪の理由は思い浮かばない。大がかりな捜索でも足取りはつかめなかった。長い不在を経て「北朝鮮による拉致の可能性が排除できない特定失踪者北朝鮮による拉致の可能性が排除できない行方不明者。2002年に、かつて北朝鮮による拉致被害者として名前が浮上していなかった曽我ひとみさんが帰国したことなどを受け、03年に民間団体「特定失踪者問題調査会」が特定失踪者を独自にリストアップしている。政府認定の拉致被害者は、02年に帰国した5人を含めて17人。」と呼ばれるようになったが、状況に大きな変化はない。失踪から50年。今も青年の孝司さんしか思い描けないもどかしさの中で、家族は再会の日を待ち続ける。(3回続きの1)

 失踪から30年がたったころだった。大沢家の玄関先に立った人影に、90歳を過ぎた父・福一郎さんは声を上げて駆け寄った。「孝司だかや!」

 福一郎さんの前にいたのは中学生のひ孫だった。すらりとした背格好や面差しが、息子によく似ていた。

 明治生まれの福一郎さんは、謹厳な性格だった。孝司さんが失踪した際も動揺したそぶりを見せず、その後も口に出すことはほとんどなかった。それだけに、ひ孫と息子を取り違え、大声を上げた姿に家族は胸を突かれた。

 数年後、福一郎さんは孝司さんと再会を果たすことなく、98歳で亡くなった。

◆1974年2月26日、夕食帰りに途絶えた行方

 大沢孝司さんは1946年6月21日、新潟市西蒲区で材木店を営む家の三男として生まれた。昔かたぎの両親は孝司さんを厳しく育てたが、「やっぱり末っ子は特別にかわいかったんだろう」と次兄の茂樹さん(82)=横浜市=。高価なカメラも、親にねだって買い与えられていた。

日光を訪れた時の大沢孝司さん。真面目で優しい人柄が周囲の印象に残っている=1971年、栃木県

 物静かだが、周りをよく観察する性格は父親譲り。趣味のカメラをどこにでも持ち歩いた。64年の新潟地震では、新潟市中央区の萬代橋まで足を運び、被災した市内の様子をフィルムに収めた。

 地元の巻高校を卒業し、東京農業大学に進学。横浜に住む茂樹さん夫妻の家に下宿しながら農業水利を学んだ。69年、農業技術者として新潟県庁に入庁した。

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 実家に帰省するときは必ず、おいやめいに土産を買ってきた。ボーナスが入れば少し高価なミニカーのセット、日中国交正常化のころにはパンダのぬいぐるみ。当時の流行や好みに合わせたプレゼントに、子どもたちは大喜びだった。孝司さんはその様子を見て満足げに笑っていた。

孝司さんからもらった茶器を前にした次兄の大沢茂樹さん(右)と妻チヅ子さん。夫妻には、孝司さんから1年に一つずつ茶器が贈られた。徐々に茶器がそろうことを楽しみにしていたが、一番欲しかった「燕三条の茶たく」をもらう前に孝司さんは失踪。茂樹さんは「弟から茶たくをもらって、一緒にお茶を飲むのが小さな夢」と語る=神奈川県横浜市

 就職した孝司さんに、両親は実家近くに土地を買うことを勧めた。佐渡農地事務所勤務中には結婚相手を探そうという話が出るようになった。「家族を持った弟の家に遊びに行くことを、おやじもおふくろも、ものすごく楽しみにしていた」と茂樹さん。これからいい方向に進んでいく-。家族の誰もが思っていた。

 そんな折の1974年2月26日、大沢家の電話が鳴った。「孝司さんが欠勤している。すぐに佐渡へ来てくれないか」。孝司さんの勤め先からだった。24日夜、新穂村(現佐渡市)の寮近くの焼き肉店で夕食をとり、帰宅する途中に行方が途絶えたと伝えられた。

20歳前後の大沢孝司さん(左)と幼い娘を抱っこする兄昭一さん。孝司さんの左手には趣味だったカメラが握られている。孝司さんは昭一さんの子どもたちをかわいがった=1966年ごろ、弥彦神社

 長兄の昭一さん(88)は佐渡に直行した。母の房さん(1986年、76歳で死去)から連絡を受けた茂樹さんも横浜から駆け付けた。何の前触れもなくいなくなった弟を捜すため、兄たちは数え切れないほど佐渡を訪れた。警察や消防も出動した大捜索でも、孝司さんの行方につながるものは見つからなかった。島内外をつなぐ佐渡汽船を利用した痕跡もなかった。

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 息子の失踪に、両親が取り乱すことはなかった。母の房さんは「辞表も出さず、家出をするようには育てていない」と言い切った。弱音を吐かず、涙も決して見せなかった。

 だが昭一さんは後に、親戚の女性から房さんの心中をうかがわせる話を聞いた。孝司さんが失踪した翌月、房さんはこの女性を誘って裏山に登り、そこで数分間、声を上げて泣き続けた。家族に見せる冷静な振る舞いは、わが子への思いを必死で抑えていただけだった。

 手がかりもなく、ただ時間が過ぎていった。「分からないことは、自分で結論を出すしかなかった」と昭一さん。孝司さんは自殺したと思い込もうとした。

 事態が再び動き始めたのは、失踪からおよそ30年後の2002年。家族の元に、同じ佐渡で失踪した女性が、北朝鮮に拉致1970~80年代、北朝鮮が日本人を連れ去る国際犯罪を重ねた。工作員の教育などが目的とされる。2002年の日朝首脳会談で金正日総書記が拉致を認めて謝罪。被害者5人が帰国し、8人は「死亡」とされた。日本政府認定の被害者は計17人で、北朝鮮は4人を「未入国」と主張している。日本側は説明に不審な点が多いとして受け入れず、交渉は停滞している。されていたとの情報が飛び込んできた。

<大沢孝司さん失踪事件>1974年2月24日夜、新穂村(現佐渡市)の県佐渡農地事務所に勤務していた大沢孝司さんが、焼き肉店で夕食をとり、狩猟仲間の食堂を訪れた後、行方不明になった。最後に目撃された食堂は寮まで約200メートル。失踪と同時刻に車の急ブレーキのような音を聞いたという証言がある。また焼き肉店の女性は、孝司さんが国外の農地整備の仕事を持ちかけられ、悩んでいたと語っている。

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