まばゆい輝きを放つ黄金を求め、新潟県の佐渡島の先人たちは400年以上も前から汗を流し、知恵を絞り続けた。江戸時代、人の力のみで鉱石を掘り、山を真っ二つにまでした「道遊の割戸」は、まさに佐渡金山のシンボルだ。1730年ごろから佐渡奉行所の絵図師らは、採掘や製錬、小判造りの工程を絵巻に描いて記録するようになった。鉱山の専門知識を持たない佐渡奉行らに、作業を分かりやすく説明するためだ。県立歴史博物館などによると、幅は25〜40センチほど、長さは約30メートルに及ぶものもある。こうした史料は、人類の鉱山史を解き明かす重要な手がかりとして、国内外で高く評価された。世界に誇り得る割戸と佐渡金銀山絵巻の秘密を、識者インタビューと写真を交えて紹介する。

新潟日報社小型無人機から撮影した、真上からの「道遊の割戸」。坑道の跡とみられる穴も確認できる=佐渡市

1690年代には今の姿に?

二つに割れた山、佐渡金山のシンボル「道遊の割戸」

 佐渡金山のシンボルとして知られる「道遊の割戸」。地表に出ている鉱石を掘る「露頭掘り」の跡としては日本最大規模で、二つに割れた山の姿が威容を誇る。しかし、金山開発の最初期に採掘されたため、掘られる前の様子や山が割れる過程、名前の由来などを詳しく記した史料は見つかっていない。不思議な風景の謎を、数少ない手がかりから探った。

 「1690年代には、もう今のような割戸になっていたと考えられる」と佐渡市世界遺産推進課の宇佐美亮さん(47)は語る。

 露頭掘りによって割れ目ができた場所を「割戸」と呼ぶ。割れ目の幅は最大約30メートル、深さ74メートル。1600年ごろから開発が始まったと伝わる。佐渡の鉱脈は地表に近いほど金が多く含まれるため、地表から掘る方法は効率が良かった。たがねやつちを使って鉱石を砕き、下に落として集めていたと考えられる。「鉱脈以外の周辺部も崩すと、不要な石の運搬にお金も人手もかかる」と宇佐美さん。切り立った割戸はコスト削減のために生まれた景色だったようだ。

 やがて露頭掘りができる場所は掘り尽くされ、1700年ごろには、主流は地下の鉱脈に向かってトンネルを掘る坑道掘りへと移った。割戸はそのまま残り、1740年ごろには、...

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