「黄金の花が咲く」と今昔物語集に記され、「金(こがね)の島ぞ妙なる」と世阿弥がたたえた新潟県の佐渡島。17世紀には世界最大級の金の生産を誇り、江戸幕府の財政を支えた。輝かしい歴史と文化がある佐渡金山を、世界文化遺産にしよう-。四半世紀前、そんな壮大な夢を胸に抱き、登録への道を歩み始めた人々がいた。長期企画「輝ける島へ」のシリーズ「掘り出した価値」は、世界遺産登録を目指した人々の軌跡をたどりつつ、「佐渡島(さど)の金山」の価値に迫る。

道遊の割戸から望んだ相川の町並み。鉱脈を手作業で掘り出し、巨大な絶壁が生まれた=佐渡市相川地区(本社小型無人機から)
佐渡金山が世界遺産を目指した歩みをさかのぼってゆくと、石見銀山(島根県大田市)を調査していたある歴史学者にたどりつく。
1996年、佐渡出身の元筑波大教授・田中圭一は、石見銀山の集落を訪ね歩いていた。当時、石見銀山はまだ世界遺産になっておらず、島根県は登録に向けて価値を証明するための調査に取り組んでいた。田中は島根県の要請を受け、鉱山史の専門家として現地を調査していた。
「現場を自分の目で見て確かめることこそ、歴史を見ることになる」との信念があった。村人に会い、古文書をひもとき、一つ一つ丁寧に記録を取った。銀山近くの温泉に入っているときですら、古老が延々と語る昔話に喜んで耳を傾けたという。
調査に打ち込みつつ、文化庁の担当者や専門家らと情報を交換するうち、ある思いが田中の胸の内に膨らんでいった。
「石見が世界遺産を目指すのなら、佐渡も目指すべきではないか」
400年以上にも及ぶ歴史の中で、膨大な金と銀を産出し、採掘や製錬、鉱山町の痕跡が無数に残る上に、幕府が記録した古文書が大量に確認されている佐渡は、決して石見に見劣りしなかった。こうした思いは後に佐渡の人々の共感を呼び、運動のうねりとなっていった。
◆「佐渡を世界遺産に」思いに共感
田中は、高校の歴史教師から、筑波大教授に転身した異色の経歴を持つ。
31年、佐渡市金井地区で生まれ、新潟大で経済と歴史を学び、佐渡島内で高校教師になった。地元の郷土史家から古文書の読み方を教わり、村の青年たちと歴史の勉強会を開いて研さんを積んだ。休日には、古い絵図を手に鉱山跡を巡った。
87年、長年の研究の集大成となる論文「佐渡金銀山の史的研究」が評価され、筑波大の博士号を取得。翌年、同大教授に就任した。
こうして積み上げた研究は後年、世界遺産登録のための調査に大いに役立った。佐渡市の担当者は「田中先生は古文書を現代語に訳し、遺跡の現地調査でも案内をしてくれた」と語る。

「佐渡を世界遺産に」。97年11月、田中の思いに共感した郷土史家や教師ら24人が集い、「世界文化遺産を考える会」を立ち上げた。会長には田中が就任。この団体は後に、佐渡市の市民団体「佐渡を世界遺産にする会」として引き継がれた。田中は87歳だった2018年、夢半ばでこの世を去ったが、「佐渡を世界遺産にする会」は現在も民間の運動の中心を担っている。
なぜ、田中は佐渡金山に世界遺産としての価値があると考え、島内の賛同を得られたのか。その謎を解く鍵の一つは、石見銀山との価値の比較にあった。(敬称略)