長岡市の横山美枝子さん(82)は今でも、会うことなく戦死してしまった父、到さんを感じることがある。自分の名前が記された、一通の手紙を通して。
中之島村(現在の長岡市中之島)の農家に生まれた到さんは、日中戦争が始まった翌年の1938年、中国に出征。その年に、美枝子さんを宿した妻ヤスさんら家族を残し、32歳で戦死した。
「お前の産後のからだの具合はなじですか」「(横山さんの兄の)芳男は元気で学校に行きますか」。到さんは戦地から妻のヤスさんや子どもたちを心配し、愛情あふれる手紙を送り続けた。父の生前の姿を知らない横山さんにとって、手紙は父を知る手がかりだ。
横山さんは母や兄、親戚のおかげで、父がいなくてふびんな思いをすることはなかった。もちろん父との思い出はないが、つながりを意識する手紙がある。
出征時にヤスさんのおなかにいた横山さんを「美枝子」と名付けた手紙だ。戦後、ヤスさんが「お父さんが戦地から名前を送ってくれたんだよ」と見せてくれた。名前の由来は分からないが「戦争で大変な時なのに一生懸命考えてくれてうれしかった。きっと女の子だから、美人に育ってほしいと願ったのかな」と想像する。
カタカナの名前の同級生が圧倒的に多く、漢字で「子」が付く名前が昔からひそかな自慢だった。「父が付けてくれた美枝子という名は誇り。今でも自分の名前が大好き」とほほ笑む。
戦後、ヤスさんは、出征時の到さんが取り上げられた新聞記事を見せた。幼い長男を亡くし、脳梗塞を患った母、身重の妻を残して出征することをたたえる内容だった。「あっぱれ伍長」と見出しが付いていた。
国のために果敢に戦地に向かう「強い男」として描かれていたが、横山さんには違和感が残った。「手紙や母の話からうかがい知る父とは全く違った。戦地に向かう人を『英雄化』したんだろう」
大人になるにつれて、不思議と父に思いをはせる機会が多くなった。72年に元日本兵の横井庄一さんが帰国するニュースを見た時に「お父さんも『ただいま』とひょっこり帰ってこないかな」と思った。
「知らず知らずに父を求めていたんだろうね。一人の娘として」。父が残した手紙を大切そうに折りたたんでつぶやいた。
(報道部・山崎琢郎)
新潟日報 2020/09/13