
9月に能登半島を襲った豪雨の犠牲になった喜三(きそ)翼(は)音(のん)さんは誕生日の12月28日で15歳になるはずだった。父親の鷹也さん(42)は同日、ささやかに誕生日を祝った。今でも、3カ月余り前の被災時に翼音さんと携帯電話でやりとりしたことを忘れられない。あの日、何があったのか。鷹也さんの証言から振り返る。
3連休初日だった9月21日。石川県輪島市久手川(ふてがわ)町(まち)の塚田川下流の家に住んでいた鷹也さんは、早朝から忙しくしていた。スポーツ大会に出場する息子を送り届け、自宅に戻って出勤する準備をしていた。
朝は小雨だったが、天気予報は大雨に変わると伝えていた。午前7時半ごろ、道路端から川をのぞき込み、「上がっていないな」と水かさに変化がないのを確認し、約3キロ離れた製材所に出勤した。
7年前にリフォームした中古住宅の自宅は元日の能登半島地震でも大きな被害を免れた。地震で避難した金沢市から戻り、生活も落ち着きつつあった。この日は家族も用事で外出し、家には中学3年の翼音さんだけが残っていた。
午前9時40分ごろ、鷹也さんは近所の住民の電話で「大変なことになっている」と知らされる。翼音さんに電話をすると、「1階の車庫が流されてもうない」「ドアが開かない」と状況を教えてくれた。「パニックどころか、冷静な口調だった」と振り返る。
だが、翼音さんが送ってきた2階の自室の窓から撮影した動画に仰天する。がれきや倒木を大量に巻き込んだ濁流が、すぐそこまで迫っていた。

家の裏は急斜面だ。「いつでも逃げられるように長袖、長ズボンに着替えて」。動揺を抑えながら翼音さんにそう告げた。だが内心は「逃げられるはずもない。何とか家が耐えてくれれば」と祈るしかなかった。
輪島市内では、中小の河川が次々と氾濫した。市役所や仮設住宅、店舗などが軒並み浸水し、鷹也さん自身も身動きが取れなくなった。翼音さんからは9時59分に着信があったが、鷹也さんは別の電話で出られなかった。何度折り返しても二度と応答はなかった。
9月末、福井県沖で遺体で発見された翼音さん。父の言いつけ通り長袖のジャージーを身に着けていた。現在、石川県中部に避難している鷹也さんは「怖かっただろうなと最期を考えてしまって、しばらく落ち込んでいた」と明かす。家族も家も奪われ、「輪島にはもう戻らない」と固い決意を口にする。
絵を描くのが大好きで、「輪島塗の絵も手がけてみたい」と夢を語っていた翼音さん。カメラを構えると、いつもピースサインと笑顔で応えてくれた。
鷹也さんは最近、各地を巡る「輪島朝市」で輪島塗製品を販売する両親を手伝うようになった。28日には誕生日を迎えるはずだった翼音さんについて身内で語り合った。「自慢の娘に心配をかけないように、いつまでも泣いていないで、笑っている姿を見せたい」
<取材後記>
私の両親の出身地は輪島市。豪雨で亡くなった井角祐子さんは母方の叔母に当たる。心配で...