本県が原発による電源地になってから40年がたった。地域振興への期待と、重大事故への不安を抱えながら歩み出した原発との共生は、大きな岐路にさしかかっている。県民一人一人が今後、どう向き合うのかを問われている。

 東京電力柏崎刈羽原発1号機が営業運転を始めたのは1985年9月18日だった。97年までに2~7号機も建設され、世界最大級の原発になった。

 地元の柏崎市、刈羽村で経済界が中心になって誘致し、原発をてこにした地域振興を目指した。一方で事故を不安視する住民による激しい反対運動も展開された。相克の中での始動だった。

 原発設置によって40年間、一定の雇用が生まれたことは間違いない。ただ柏崎市を例に見ると、人口は減り続け、その減少率は県内で同規模の三条市、新発田市と比べても大きい。

 原発が次々と建設された時期に柏崎市長を務めた故飯塚正氏は後年、新潟日報の取材に「人口も増えず、産業も全然。(期待とは)逆さまになった」と漏らした。原発による地域振興の効果は限定的だったと言わざるを得ない。

 1号機が動いた翌年には旧ソ連でチェルノブイリ原発事故が起き、住民は原発への不安を抱え続けた。「推進」と「反対」の対立を招いたという点では地域にマイナスの影響をもたらした。

 その責任の一端は、柏崎刈羽原発を運営してきた東電自身にあると言っても過言ではない。

 原子炉内施設のひび割れを隠して運転を続けたことが2002年に発覚するなど、相次ぐ不祥事で地元の不安感を増幅させた。

 07年の中越沖地震では震度7に及ぶ想定外の揺れに襲われ、被災した。11年に発生した東日本大震災で福島第1原発事故を起こし、「日本の原発は安全」というこれまでの説明を自ら覆した。

 東電はいま、福島事故を受けて停止した6、7号機に追加の安全対策を施すなど、再稼働に向けた準備を着々と進める。政府は既に、県、柏崎市、刈羽村に対して再稼働への同意を求めた。

 県民は再稼働の是非について判断を迫られている状況だ。

 論点は幅広い。日本のエネルギー安全保障や地球温暖化など国家的、地球的な課題が横たわる。原発から出る高レベル放射性廃棄物(核のごみ)の処分場が定まっていないことも深刻な問題だ。

 柏崎刈羽原発を巡っては、施設の安全性や避難計画の実効性に加え、1~5号機の廃炉を含む今後の扱いもテーマとして挙がる。

 この40年間、原発と共生する中で分かった、地域への恩恵の乏しさも欠かせない論点だろう。

 原発が既に存在している地域の未来をどう描くのか。これまでの歩みを踏まえながら、虚心坦懐に議論したい。