太平洋戦争末期の特攻作戦について語る鳥谷邦武さん=2025年2月、佐賀市
 太平洋戦争末期の特攻作戦について語る鳥谷邦武さん=2025年2月、佐賀市
 太平洋戦争中の写真を眺める上野辰熊さん=2025年2月、埼玉県新座市
 太平洋戦争中、大刀洗陸軍飛行学校を卒業して操縦士となった鳥谷邦武さん(左から2人目)=撮影年、場所不明
 太平洋戦争中、大刀洗陸軍飛行学校を出て操縦士となった上野辰熊さん(本人提供)=1945年4月、岐阜県各務原市で撮影
 出撃する神風特別攻撃隊=1944年10月、フィリピン・マバラカットの飛行場
 鹿児島県南九州市の知覧飛行場跡地で営まれた旧日本陸軍特攻隊員の慰霊祭で献花する参列者=2025年5月3日午後、鹿児島県南九州市
 鹿児島県南さつま市の旧陸軍万世飛行場跡地で営まれた慰霊祭。上野辰熊さんも訪れた=2025年4月13日午前

 太平洋戦争末期、戦況が厳しくなる中で日本軍の特攻は、若者の命を賭した「必死」の作戦だった。軍部は本土決戦への時間稼ぎと最後の戦果を上げる「捨て石」として沖縄を重視し、九州や台湾から次々と出撃させた。約6千人の命が失われた。

 福岡県内の飛行学校に通った2人の操縦士は、次々に飛び立っていく仲間を見送り終戦を迎えた。あれから80年。「人間として認められない『鉄砲玉』として、無駄死にさせられた」「仲間の死は決して無駄ではなかった」―。特攻へは異なる感情を抱く一方、「過去を知って判断してほしい」と不戦の思いを胸に体験を語り続ける。(共同通信=西野開、神谷龍)

 ▽「おまえたちは消耗品」

 1943年4月、...

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