3月末で60歳定年を迎えるその人は、4月からこれまでの会社勤めとは縁のない農業をなりわいにするという。周囲の一抹の不安をよそに、あれこれ構想を膨らませている。容易ならざる道でも、夢を育む人は明るい。そして強い

▼ずっと人に使われ続けてきたのだ。働き方改革など無縁だった時代に、歯を食いしばって役割を果たしてもきた。会社員生活を支え合ったお連れ合いと円満な合意形成さえあれば、思うようにやりたいことに挑戦できる

▼小説家常盤新平さんの「長すぎた助走」は、定年退職を迎える知人を巡る随筆だ。会社を辞めたいと思ったことがあるか尋ねると、知人は「毎日思ってますよ。思うのが趣味になってしまったみたい」と答える

▼そしてこう続けた。「こんな会社いつでも辞めてやると思うこともあるんですね。これは気持ちのいいことですよ。ただね、そう思えるのも、この会社に勤めているからだって後で気がつくわけ」

▼知人は退職後に短大の講師となり、これまでが「いささか長すぎた助走」だったとあいさつ状をよこす。教師になるのが夢だったという。出世に頓着せず、焦らず騒がず、真面目にこつこつ働き、定年に至ったこの知人に敬意を抱くと、常盤さんはつづる

▼60歳から80歳まで睡眠や食事などの必要時間を除くと8万時間あり、これは20歳から60歳までの一般的な総労働時間に等しいと作家の加藤仁さんはいう。「助走」を糧にその先へ踏み出さんとする多くの先輩諸氏にエールを送る。