三条市の下田地域から延びる八十里越は、ただの峠道とは違ったのだろう。「越(ご)え」の響きに込められた険しさを想像する。容易に越えられぬ山坂であるのに先人たちが往来したのは、なぜか
▼福島県の会津側からは農耕用の馬がもたらされた。麻織物の原料や木材も運ばれてきた。越後側からは塩や干物、鎌のような金物が峠を越えていった。品々から思うと、山側と海側が補い合うために欠かせぬ道だったのだろう
▼北陸建設弘済会編「八十里越」によると、重い荷を担いで通るその難路は、一人前の商人を育てる修練の道場でもあった。苦難を乗り越えた者だから、問屋の信用を得ることができた。三条商人のたくましさの源がうかがえる
▼飢饉(ききん)の年には越後から救援米が送られたという。そうやって山を越え、心通わせた歩みが街道の記録に残る。明治末期までは街道としての役割を担ったが、鉄道の開通が往来を変え、昭和になると車が通れぬ獣道と化した
▼すっかり細くなったそのルートが「八十里越道路」としてよみがえる日が見えてきた。来年夏に暫定開通することが発表された。橋脚の高さが80メートルを超える橋を架けたというから、現代の土木技術に驚かされる
▼交易の道であり、福島と新潟の支え合いの道であったものが、今度は観光の道として新たな風を呼び込む役割を期待される。事業化からなんと40年たっての開通となる。雪深い県境に橋を造り、トンネルを通す工事もまた苦難であったに違いない。不屈の道である。
