転勤や就職、進学などで、新しい一歩を初めての街で踏み出した人も多いだろう。縁もゆかりもなかった街なら、当初はよそよそしかったかもしれないが、近所の家並みや商店街の小路にも少しずつなじんできたころか
▼直木賞作家の山口瞳さんが街を巡る持論をつづっている。〈寿司屋とソバ屋と、酒場(私の場合は赤提灯だが)と喫茶店、これを一軒ずつ知っていれば、あとはもういらない〉。そういうものがなかったとしたら〈その町に住んでいるとは言えない〉(「行きつけの店」)
▼引っ越した街ではまず、方々をくまなく歩いたという。口コミも大切にした。美食を求めたわけではない。店の雰囲気であり、切り盛りする人をじっと見ていたのだろう。店主の人柄が味に出るとも語っていた
▼かくして、店は街の文化そのもので、そこで働く人もまた文化だと確信するに至ったようだ。存命であれば今年で100歳を迎えた文人は酒好きで知られたが、何より粋であろうとしていたことがうかがわれる
▼転勤族は各地を転々とする。記者稼業もそう。県内は広く地域性はさまざまだが、どこへいっても暮らしを潤してくれたのは、人とのつながりだった。その街にしかない店は、つながりを結ぶきっかけになった
▼カウンターチェアに腰掛け、たわいない話をしながら、自分も街の一員になったと思わせてくれた。そんな店が忘れられない。もう店主が亡くなった店も、廃業した店もある。有名店ではなかったが、それがよかった。
