読者の皆さんから、戦時中の何げない日常の思い出を寄せてもらっている「#あちこちのすずさん」。連携する全国の地方紙やNHKなどにも、戦後75年を経ても色あせない、さまざまなエピソードが投稿として届いています。今回はその一部を紹介します。

あやしていたのは新巻鮭...
キミ子さん

 戦後、5人の子どもを女手ひとつで育てたキミ子さん(大正生まれ)が、汽車を乗り継いで 闇市に行ったときのエピソードです。

 空襲で夫が亡くなり、5人の子どもを抱えて未亡人となったわたしは、東京を離れ、京都にある夫の実家へ身を寄せることとなりました。夫を亡くしたわたしにとって、夫の実家は 決して居心地のいい場所ではありませんでした。

 どうにかして自分の居場所を作ろうと考えたわたしは、目前に控えたお正月のために、縁起物の新巻鮭を入手しようと思いつきました。新巻鮭のような贅沢品を持ち帰れば、きっとみんなのわたしを見る目が変わるに違いない、と思ったのです。

 とはいえ、物資が不足していた時代ですから、新巻鮭など簡単に手に入るはずもありません。入手するためには、汽車に乗って遠くの町の闇市まで行くしかありませんでした。ただ、闇市の品を持っていることが周りにバレたら、通報されたり強盗に遭ったりするかもしれません。そこでわたしは闇市に行く際、赤ちゃんを包む"おくるみ"を持参することにしました。それまでの子育てで使い古したおくるみです。

 闇市では、お目当ての新巻鮭を無事手に入れることができました。あとは汽車に乗り、誰にもバレずに持ち帰るだけ。

 「おとなしい赤ちゃんですね。ほんとにお利口にしてはること」

 「どうぞ、席をお譲りします」

 満員電車の中、わたしはおくるみに新巻鮭を包んで、赤ちゃんのように抱きかかえていた のでした。周囲からやさしい声をかけられるたび、内心ヒヤヒヤ......。なんとか受け答えして、おくるみに包まれた新巻鮭をあやしながら家路をたどりました。

 お正月のご馳走に新巻鮭をもたらしたことで、亡き夫の実家に暮らす家族たちもわたしのことを見直してくれました。

 こちらの投稿をお寄せくださったのは、キミ子さんの孫のひつじちゃん(50代)です。幼少の頃に、キミ子さんからこの話を聞いたのだとか。今も塩鮭を食べるたびに「本当にありがとう。しっかり、生きていきます」と、亡くなられたキミ子さんを思い出すのだそうです。

(NHK)

軍にとっては馬も「兵器」
前島英資さん(83) 北海道遠軽町

 戦時中、遠軽(オホーツク管内)で父と共に働いていた馬を軍に供出することになりました。別れの日。母は家族の食料として取っておいたニンジンを全て愛馬に与え、父は最後に手綱を引いて記念撮影をしました。農家にとって馬は喜びも悲しみも分かち合う家族同様の存在ですが、軍にとっては兵器でしかありませんでした。

(北海道新聞)