ほんのり甘くさわやかな香りを今でも覚えている。
聖籠町蓮野の二宮正光(まさみつ)さん(84)は小学2年で終戦を迎え、進駐軍のチューインガムを口にした。「アメリカ人はこんなものを食べていたのか」と驚いた。
終戦後、進駐軍が町内に滞在した。青い目をした米兵をよく見かけた。時々、口の中で何かをかんでは道に吐いていた。何を口から出しているのかは分からなかった。
ある日、米兵が口から吐き捨てたものを、近所で飴屋(あめや)を営むおばあさんが集めていた。友人と後ろから付いていくと、おばあさんは拾ってきたものを店の柱に貼り付けたり、洗ったりしていた。すると、洗ったものを「口の中にいれてごらん」と言わんばかりに渡してくれた。
口に含むと、今まで感じたことのない不思議な香りが広がった。「あんなさわやかな味わいは初めてだった」
その後、口に含んだものはチューインガムだと知った。砂糖さえ手に入りにくい時代にスースーと爽快感のある味わいは、忘れられないものだった。
米国への興味は東京の大学進学でさらに高まった。映画で見る米国は豊かだった。学生が車を運転し、デートをする様子に憧れた。
一方で、終戦から10年以上たっていたが、東京では傷痍(しょうい)軍人や戦争孤児をよく見かけた。日本との格差を実感した。
銀行員になり、米国へ3年ほど出向したこともあった。「日本にいると分からないアメリカ人の人情がよく分かった。国の文化が分かると、交友も広がっていった」。“チューインガムの国”が自分を成長させてくれた。
(魚沼総局・丸山慧人)
◆[わたしもすずさん]相馬智枝子さん(90)=新潟市中央区=
はためく星条旗と敗戦国
私が学んだ新潟市の白山国民学校は、当時としては珍しい鉄筋コンクリート3階建ての立派な校舎でした。終戦を迎えると、校舎は進駐軍の兵舎になりました。昭和橋の上から校舎を眺めると、校庭の国旗掲揚台に星条旗がはためいていました。リラックスした兵士たちが行き交う姿も見えました。日本は敗戦国なんだと強く強く思いました。
◆[わたしもすずさん]エイコさん(83)=匿名・新潟市中央区=
「ヘイ、チューイングガム!」
5歳か6歳の頃の話です。進駐軍のジープ型の車が来ると子どもたちが集まり、「ヘイ、チューイングガム!」と必死になって手を出したものです。米兵さんはとても優しくて、気前よく分けてくれました。