イラストはデジタル・グラフィックスセンター 高橋佐紀
イラストはデジタル・グラフィックスセンター 高橋佐紀
片桐キヨイさんと夫・篤司さん(髙橋聖子さん提供)
片桐キヨイさんと夫・篤司さん(髙橋聖子さん提供)
最後列の一番左が片桐キヨイさん(髙橋聖子さん提供)
最後列の一番左が片桐キヨイさん(髙橋聖子さん提供)
前列右から2番目の女性が片桐キヨイさん(髙橋聖子さん提供)
前列右から2番目の女性が片桐キヨイさん(髙橋聖子さん提供)
キヨイさんの思い出を語り合う家族(右から息子の片桐信義さん、その妻のワカエさん、孫の髙橋聖子さん)
キヨイさんの思い出を語り合う家族(右から息子の片桐信義さん、その妻のワカエさん、孫の髙橋聖子さん)

 夫のいない冬は長く厳しく感じた。1945年2月。長岡市の片桐キヨイさん(2008年に94歳で死去)は、臨月のおなかを抱えて自宅の雪下ろしをしていた。8歳の長女と7歳の長男も額に汗を浮かべ手伝った。「家の男はみんな戦争に行ってしまったそうです」。孫の髙橋聖子さん(57)は、キヨイさんの数え切れない苦労話を小さい頃から聞いていた。

 夫の篤司(とくじ)さんとは20歳で結婚。篤司さんは2回の出征を経験した。夫不在の家はキヨイさんが一人で切り盛りした。田んぼ仕事は楽ではなかった。牛を使って耕すなど重労働ばかり。キヨイさんは夫婦そろって田んぼに出ていた隣人のことを「けなりでけなりで(うらやましくて)仕方なかった」と聖子さんに話して聞かせた。

 2回目の出征時は身重の体で家を守った。雪下ろしをするキヨイさんを心配した近所の人が、手伝いを頼めないか区長に相談したこともあった。しかし区長は「日本が大変な時に他人に頼るな、非国民!」と激しい口調で責め立てた。

 長岡空襲の夜は義母と子どもたちを連れて裏の竹やぶに避難、布団をかぶって一夜を過ごした。自宅は焼き尽くされた市街地から離れていたが、竹やぶは飛行機からの油にまみれた。田んぼには焼夷(しょうい)弾が落ちた。空襲で焼け出された親戚が疎開してくると、自分の食糧を減らして親戚を養った。

 戦時中の話をする時、キヨイさんはいつも涙を流した。毎年8月に長岡花火が上がると、空襲の夜を思い出していた。それでも、家族や親戚が集まってくる花火の日が大好きだった。

 「つらい記憶を笑い飛ばす、明るくてパワフルな、花火みたいなおばあちゃんでした」と聖子さん。キヨイさんの口癖は「今が1番幸せら」。孫8人とひ孫16人に囲まれ、家族みんなに愛されて幸せな晩年を送った。

(報道部・池柚里香)

◆[わたしもすずさん]武田清さん(73)=長岡市=
母が口ずさむ軍歌、歌詞を覚える

 亡くなった母は私が子どもの頃、夕飯の支度をしながら小さな声で軍歌を口ずさんでいました。私も歌詞を覚えました。

 母は戦時中、縫製会社に勤めていました。毎日11時間労働でした。休みはほとんどなく、休めた時は友達と朝方までしゃべっていたそうです。残業を命じられることもあり、残業が長引くと最終の汽車に乗れず暗い夜道を7キロ歩いて帰ったそうです。

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