1945年、新潟県長岡市の悠久山近くに住み、中沢国民学校で5年生の担任をしていました。5年生は近くの農業試験場の芋掘りに動員されることが多かったです。すぐ上を敵機が飛び、いつ撃たれるかと、ひやひやしていました。
ある時、子どもたちが「先生大変だ」と呼びに来るので行ってみると、鳥居に男の人が縛られていました。どうやらサツマイモを畑から盗んで縛られたようでした。そばでは、赤ちゃんをおぶったその人の妻がおろおろしていました。見ていられませんでした。
8月1日、長岡空襲がありました。上空から大量の焼夷(しょうい)弾が落とされ、長岡のまちの右端から左端まで一面真っ赤に燃えているのが見えました。悠久山に空襲はありませんでしたが避難してくる人たちが列をなしていました。
当時、産婆(助産師)をしていた近藤さんという女性の家に下宿していましたが、空襲があった夜、提灯を持った男の人が近藤さんを迎えに来ました。信濃川の橋の下で、避難してきた人のお産が始まったのです。近藤さんは「何かあったらこの子たちを頼むね」と、2人の子どもを私に託し、出掛けていきました。防空壕(ごう)の中で心細い夜を過ごしました。こんな時でも生まれてくる命とそれを助けようとする近藤さんをすごいと思いました。
翌日、学校に行ってみると教室や体育館は避難者と救護の赤十字の人でいっぱいでした。校庭では遺体を焼いていて、何とも言えない気持ちでした。炊き出しのおにぎりを握る手伝いをしましたが、握っても握っても全然足りませんでした。
9月になり、学校が再開されるとは避難してきた子どもが加わり、児童数が増えました。教務室まで教室になり、教務室は廊下に設置されました。大変なことは続きましたが、戦争が終わった喜びはかけがえのないものでした。
◆灯りを覆い、手元を照らして受験勉強
榎並秀栄(えなみ・ひでえい)さん(91)=新潟市江南区=
小学校4年生の時に太平洋戦争が始まりました。6年生になる頃には戦況が激しくなっていました。中学受験の勉強をしていると、地域の人がメガホンで「警戒警報発令」と呼びかけに来ることがありました。素早く電灯に覆いを掛け、外に光りが漏れないようしなければいけませんでした。勉強机の電気スタンドにも風呂敷を掛け、手元だけを照らして勉強しました。
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