「見よ東海の空明けて 旭日高く輝けば…」。1945年、当時15歳だった新潟市江南区の伊東正夫さん(92)は、学徒動員で重労働に従事するさなか、「愛国行進曲」を口ずさみ、自分を鼓舞した。
新潟県関川村出身。旧制村上中学に通っていた時、荒川町(現村上市)の坂町機関区に駆り出され、朝から夕方まで、大きなスコップで石炭を蒸気機関車に補給した。
当時は友人とよくボール遊びをしていたが、石炭補給で肩を痛め、真っすぐ投げることができなくなった。それでも、働くのをやめたいとは思わなかった。「お国のために大人は兵隊に行く。自分は働いて助けるんだ」。日本の戦勝を信じてやまなかった。
「普通の兵隊ではなく、偉い指揮官になりたい」と陸軍士官学校を志望し、終戦が間近に迫った頃、試験を受けた。高田市(現上越市)の宿舎に集められた。将校から「天皇陛下のために尽くせ」と訓示を聞いた後、真っ白な紙に氏名を書き、右手の人さし指の先を切って忠義を誓う血判を押した。指先から流れる血を見ただけで、本当は青ざめてしまっていた。
翌日の面接で志望理由を問われると「国のために尽くしたい」と答えた。「軍人になれば、血なまぐさい戦争に巻き込まれる」とは考えもしなかった。誰も戦場の悲惨さを教えてはくれなかった。
合否が分からないまま、終戦を迎えた。後で知ったが、通常は行われていた筆記試験が課されていなかった。戦況が悪化したため、軍は「全員合格にして、戦場に送り込もう」と思っていたのかもしれない。
忠義を示すために体を傷つけることを強いるなど、「人間性を抹殺する戦争の残酷さ」に気付いた。「軍国主義に洗脳される時代を繰り返してはいけない」と、中学の教員になり、自らの体験を生徒に語った。
戦争に疑問を抱けなかった子ども時代を振り返り、「自分の考えを持つ大切さ」を感じる。時代とともに価値観や思想が変わっても、「平和と民主主義だけは譲れない」。
(報道部・野上愛理)
◆[わたしもすずさん]仙田幸造さん(89)=上越市柿崎区=
「あんちゃ行くなー」
中学1年で終戦を迎えました。戦時中は学校の先生から兵隊になるよう勧められました。「日本は神に守られているから負けない。必勝の信念を持って」などの教えを信じ込みました。
出征兵士の壮行会は村の行事でした。同級生が長兄を見送り、「あんちゃ行くなー」と大声で泣き出したことがありました。その時、肉親の出征はお祝いではなく大変な心配と悲しみだと気付きました。