イラストはデジタル・グラフィックスセンター高橋佐紀
イラストはデジタル・グラフィックスセンター高橋佐紀
1939年、家族と共に中国へ渡った当時小学校1年生、西蒲区の野澤弘さん=野澤弘さん提供
1939年、家族と共に中国へ渡った当時小学校1年生、西蒲区の野澤弘さん=野澤弘さん提供

 「日本ではひもじい思いを味わった」。新潟市西蒲区の野澤弘さん(89)は1945年2月、中国大陸から日本に帰国した時のことを振り返る。中国・上海などでの暮らしは裕福で、食料に困ることなどはなかったが、一変した。

 野澤さんは北海道で生まれ、小学校1年生の頃に家族で中国に渡った。父親は中国の鉄道で通信員として働き、家にはお手伝いがいる豊かな家庭だった。

 思い出に残るのは、父親の同僚家族との食事会。円卓を囲み、最初の方に提供されたエビのチリソースがおいしくて、たくさん食べた。すると父に「これからだんだんおいしい料理が出てくるから、食べ過ぎるな」と笑われた。暮らしていた町は映画館や喫茶店などがあって栄えており、不便はなかった。

 しかし、戦争が激化すると帰国命令が出た。45年の冬、母と妹と弟の4人で日本へ戻った。南京から北上し、朝鮮半島を経由。13日間かけて京都に着いた。

 やっとの思いでたどり着いた宿の人から「コメがなければ宿泊できない」と言われた。手持ちのコメを渡して泊まれたが、出てきた食事は雑炊だけ。対価として見合うものではなかった。「日本の食糧不足を痛感した」と振り返る。

 翌日、母はデパートに連れて行ってくれた。「華やかなデパートなら良い物があるから」と母に言われ、期待した。デパートへ行くのは初めてだった。

 しかし、店内はがらんとしていた。「木製のしゃもじや、竹と貝でできたお玉があった。食べ物や着物は一切なかった」。母は「こんなのデパートじゃない」と涙を流していた。母が泣く姿を不思議そうに眺めることしかできなかった。

 その後は富山、新潟と疎開を続け戦禍を逃れた。「終戦後もつらい思いはたくさんしたが、家族一緒で過ごした時は良かった」と懐かしんだ。

 野澤さんは戦後、教師になり、平和への思いを次世代へ語り継いだ。「あの白いご飯が欲しかっただけなのに…」。つらかった思いは今でも忘れられない。

(報道部・丸山慧人)

◆[あの頃の空気と今]
「軍事費」と「防衛費」と国民生活

 第2次世界大戦中、日本国内は激しい食糧難と物不足に見舞われた。背景には徴兵や勤労奉仕が及ぼした労働力不足、軍への食糧供出などがあった。

 政府と軍は1937年の日中戦争以降、国民生活を顧みず戦争に傾注した。国家予算に占める軍事費の割合は70%台が続き、44年は85%に達した。予算総額は膨張し続け、財源は借金と増税頼み。国民の負担は増すばかりだった。

 戦後は防衛費に歯止めをかける政策を打ち出した。三木武夫内閣は、国民総生産(GNP)比1%以内に収めると76年に閣議決定した。87年度以降「1%枠」は撤廃されたが、一定の目安になっている。

 一方、自民党は今夏の参院選公約で、国内総生産(GDP)比2%以上を念頭に、防衛力を抜本的に強化する予算水準を目指すとした。2%「以内」ではなく「以上」。歯止めという考え方はうかがえない。

=後日、連載「あの頃の空気と今 歴史から学ぶ」を掲載します=

◆[わたしもすずさん]佐藤カチエさん(91)=胎内市=
「勤労奉仕」の田んぼ仕事でおなかいっぱいに

 戦争当時、私は国民学校初等科でした。毎日ランドセルと防空頭巾を担いで登校です。「欲しがりません勝つまでは」の標語通りでした。

 おなかいっぱいに食べられない時代です。ある日、出征兵士の留守宅へ勤労奉仕に行きました。初めての田んぼ仕事でろくに作業できなかったですが、ごちそうされたお昼がおいしかったことを今も忘れません。