「強権発動だとよ」。聞き慣れない言葉とともに、騒がしい一日が始まった。突然、現れた男たちが家中をかき回して米を探す様子に、当時8歳だった新潟市西蒲区の真島スミヨさん(85)は恐怖で震えた。
中野小屋村(現新潟市西区)の米農家で育った。だが、収穫した米は供出し、口にするのは豆や麦が混じったご飯ばかり。「おなかがすいて、毒じゃない物は何でも食べた」
終戦から間もなく、稲刈りを終えた1945年10月ごろ、隣接する本家の前に数台のジープ型の車が止まった。割り当てられた米の量を供出できなかったため、「米を隠し持っている」と疑った警察官と進駐軍が米を探しに来た。
警察官たちが真島さんの家にも踏み込んできた。竹やりであちこちをつついて米を探した。進駐軍は静かに見ているだけだった。「家族が連れていかれるのではないか」と怖くて、物陰から様子をうかがった。
祖母が大きな鍋に米のかけらを入れ、みそで味付けした「ごんだ」を作っていると、警察官が竹やりで指して言った。「これは何だ」。強い口調で、悪人扱いされているように感じた。
祖母は「ごんだという食べ物だわね」と落ち着いて答えた。「食べてみるかね」と茶わんに盛りつけようとすると、警察官は「いらない」と手で遮った。
結局、どこにも米はなかった。あるはずがなかった。
どの家も食べる物に困り果てていた。ある日、母と一緒にサツマイモを収穫しに畑に行くと、見知らぬ女性がイモを掘っていた。女性は「子どもが待っている。生きなきゃいけない」と言った。見かねた母が「これも持っていって」と、女性のリュックにイモを詰めた。
日本は豊かになり、有り余るほどの食べ物が手に入るようになった。「食べきれない」と捨ててしまう人もいるが、戦時中を思い出すと、少しも無駄にはできない。あの頃口にできなかった米一粒一粒のおいしさを、かみしめている。
(報道部・野上愛理)
◆[わたしもすずさん]児玉与一郎さん(79)=新潟市南区=
ヤミ米積んだリヤカー、仲間と押す
終戦後の1952年のことです。学校帰りにわが家の前を、物売りのおばあさんが難儀そうにリヤカーを引いていました。仲間4人で押すのを手伝うことにしました。
押していると、巡回中の警察官から「その荷物は」と聞かれました。誰かが「重たいからコメだと思う」と答えてしまいました。その警察官は「ヤミ米は動かしてはダメだが今日は見逃してやる。君たち押してやれ」と言ったのです。結局3キロほど押しました。