イラストはデジタル・グラフィックスセンター 高橋佐紀
イラストはデジタル・グラフィックスセンター 高橋佐紀
戦時中の出来事を振り返った阿部安子さん。ウクライナの子どもたちと当時の自分が重なるという=2022年8月撮影
戦時中の出来事を振り返った阿部安子さん。ウクライナの子どもたちと当時の自分が重なるという=2022年8月撮影
阿部安子さんが1歳の頃の家族写真。右端が母のタケさん=1941年10月撮影(阿部さん提供)
阿部安子さんが1歳の頃の家族写真。右端が母のタケさん=1941年10月撮影(阿部さん提供)

 「トマトは青臭く、キュウリはみずみずしかった」。新潟市西蒲区の阿部安子(やすこ)さん(81)は、長岡空襲翌朝の出来事を思い返す。必死で逃げ、避難した畑から母がトマトとキュウリをもぎ取り食べさせてくれた。「おいしくはなかったけど、のどが渇いていて生きるために食べた」

 1945年8月1日夜。阿部さんは4歳10カ月の時、長岡空襲に遭った。当時、長岡駅に近い長岡市袋町に母と2人の兄、姉、妹と暮らしていた。父は仕事で青森に単身赴任し、長姉は就職し満洲に渡っていた。

 その夜、中学生だった長兄に起こされた。防空ずきんをかぶり、1キロほど離れた栖吉川の土手を目指して家族で逃げた。「どんなことがあっても離れないようにしないと」。8歳の姉の手をしっかりと握った。

 田んぼのあぜ道を走った。途中でゴム製の靴が脱げた。姉が自分の靴を履かせてくれた。「人波がすごくて、大人に押されて何度も田んぼに落ちた」。上空には焼夷(しょうい)弾が広がった。「花火が上がったように空が明るくなっていた」

 途中の記憶はなく、目覚めたら土手の下の畑にいた。その畑にトマトとキュウリが植わっていたらしい。「トマトはまだ青かったのかもしれない」と言うが、空腹とのどの渇きを紛らわすことができた。

 自宅は焼けずに残ったが、食べるものに苦労した。着物とコメを交換するために母と農家を訪ねた。農家の女性が白米の大きな塩おにぎりを握ってくれたことも思い出の一つ。「家ではイモや豆が入った雑炊ばかりだったから」と話す。

 今暮らす西蒲区の自宅脇の畑では、夫がたくさんの野菜を作っている。トマトとキュウリが実る時季になるとあの日の記憶がよみがえる。でも、「今のトマトはおいしい」と笑みを浮かべ、平和な日々を実感している。

(報道部・小柳香葉子)

◆[わたしもすずさん]滝沢エイ子さん(94)=上越市=
空襲から3日後、出会った父と笑い合う

 従軍看護師になりたくて、現在の長岡赤十字看護専門学校に入学しました。長岡空襲の夜は信濃川の土手に必死で逃げました。焼夷弾を避けて、眠れないまま夜明けを迎えました。

 空襲の3日後、父が柿崎町から野菜を担いで来てくれました。私の顔を見た途端、「おまえはちょろちょろして素早いから、生きていると思った」と言って、一緒に笑いました。

◆[わたしもすずさん]佐藤笑子さん(82)=小千谷市=
酸っぱくなった1本の「たくあん漬」

 長岡空襲の夜、母子3人で母の実家へ逃げました。数日お世話になりました。冷蔵庫もない盛夏に、カビの出たたるの底に1本のたくあん漬。大事な1本を食べさせてくれました。家族の大事な1本だったろうに。

 酸っぱくなっていて、今ならゴミ箱でしょうけど、それがおいしくておいしくて。今でも捨てるような酸っぱい漬物が大好きです。

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