「赤ん坊の私が泣いていると、ほえて両親を呼んだそうだ。面倒見が良くて優しい犬だった」。戦時中、東京・中野で幼少期を過ごした高野荘平さん(81)=新潟県長岡市=。傍らにはいつも、愛犬のジャーマンシェパード「ベロ」がいた。
ベロはオスで、高野さんが生まれた時、番犬として両親が迎えた。「ドイツの血統書付きで、よく訓練を受けた犬だ」と、高校の英語教師で翻訳家でもあった父は誇らしげだった。
高野さんが2歳になる1943年の5月、家族3人とベロで初めて、自宅の裏山にピクニックに出かけた。「母手製の、ササに包まれたおにぎりを食べた」。父が写真を撮ってくれた。2カ月後にベロとの別れが訪れるとは、思いもしなかった。
戦況の悪化につれ、食糧事情は厳しくなった。毎日洗面器1杯分のえさを食べるベロを飼い続けることが難しくなった。「父は後に『ベロのような大型犬は飼っていられない空気だった』と話していた。誰もが家族を養うので精いっぱいの時代だったのだろう」
同じ年の7月、父は民間の犬を訓練する「帝国軍用犬協会」の養成所にベロを入所させた。お別れの前、母はベロを抱きしめ、涙ぐんでいたという。年末には長野県戸倉町(現千曲市)の人に引き取られた。一家は父の故郷である片貝村(現小千谷市)などに疎開。それ以来、ベロと再会することはなかった。
ベロがいなくなり、とてもさみしかった。今、ウクライナ情勢のニュースを見ていると、飼い主が避難し、取り残されたペットたちの姿が時々報じられる。離れ離れになる悲しみは「ベロの時と同じだ」と感じる。
幼い時にベロと中野の家の縁側でよく遊んだことや、自分によく甘えてきたことは、今でもかすかに覚えている。
ピクニックで撮った写真は今も残る。アルバムを見ていると、涙が出てくる。厳しい時代に家族の心の支えだったベロに、感謝している。
(報道部・池柚里香)
◆[わたしもすずさん]千村ユミ子さん(85)=長岡市=
「弁当」はさまざま…おいしかった蒸しパン
1945年7月、8歳の私は預けられていた岐阜県の親戚宅から魚沼の生家へ帰るため、伯父と汽車に乗りました。伯母が作ってくれた弁当は、大豆をすりつぶしてまぜた蒸しパンでした。前の席の男性が小麦粉を薄く焼いたものをくれました。どちらもおいしかったです。
乗り換えの長野駅では、床に風呂敷を敷いて女性と3人の男の子たちが鍋を囲んで食べていました。雑炊のようなものが彼らのお弁当でした。