戦中を振り返る富本祐二さん=沖縄県浦添市
戦中を振り返る富本祐二さん=沖縄県浦添市
絵:徳島新聞
絵:徳島新聞

 読者の皆さんから、戦時中の何げない日常の思い出を寄せてもらっている「#あちこちのすずさん」。連携する全国の地方紙やNHKなどにも、戦後75年を経ても色あせない、さまざまなエピソードが投稿として届いています。今回はその一部を紹介します。

「命つなぐ水」父奪う
 富本祐二さん(84) 沖縄県浦添市

 米軍が沖縄本島に上陸した1945年4月、当時9歳だった浦添市前田の富本祐二さん(84)は、十数人の家族で那覇・首里へ避難していた。

 「前田は危ない」と誰か大人たちが知らせたためだった。だが、たどり着いた首里でも砲弾が飛び交い、身を隠せそうな壕(ごう)を見つけられない。

 「どうせ死ぬなら、生まれた集落で死のう」と父が言い、再び前田へ引き返した。夜、米軍の攻撃がやんだころに父母の手を握って逃げると、「ヒュー」と、砲弾が飛んで風を切る音が聞こえてくる。ぱっと手を離して逃げ、静かになれば、暗闇の中で父母の手を探してつなぎ、再び歩く。その繰り返しで、いつしか弾が近くに落ちるか遠くに落ちるか、音で分かるようになっていた。

 前田では先祖の墓の近くの壕に入った。どれくらいの時期を過ごしていたのか分からない。食べ物も飲み水も底を突き、1週間ほど何も口にしていなかったある日、父が「水をくみにいく」と言って出て行った。

 水があるのは、壕から500メートルほど離れた場所だった。しばらくして、バケツに水をたたえて父が帰ってきた。胸からは大量の血があふれていた。外で弾に当たっていた父はバケツを渡し、そのまま倒れた。

 その日、壕にやってきた米軍に捕虜として連れ出された。壕から出ると、焼け焦げた5、6人の遺体が目に入った。自分もこうやって焼かれるんだと思っていた。

 終戦後、前田地区に入れるようになったころ、最後に家族でいた壕に行った。父親が、胸から血を流した時のままの姿で息絶えていた。

 「今も、おやじのあふれていた血が目に浮かぶ。壕から出る時、おやじは生きていたのか、それもはっきり分からない。多分、息はあったのかと思うんだけど......」と振り返る。

 浦添市史によると、前田地区は沖縄戦で201世帯934人のうち、549人が戦死。戦死率は58・8%に上り、59世帯が一家全滅した。

 その戦渦の中に自らがいたことを知ったのは戦後しばらくしてからだ。ただ、これまで積極的には戦争体験を話してこなかったし、これからもそのつもりはないという。

 鳥の鳴き声が響き、のどかな前田地区を眺めながら、富本さんは語る。「今の子どもたちに話しても、想像はつかないでしょう。どうやったって、信じられないし、私も言葉だけで伝えきれる自信はない、と思うんです」(沖縄タイムス)

「まだ死にたくない」
 柏原花奈さん(13) 徳島市

 私の祖父は1939年の戦時中に満州で生まれました。祖父の父が軍人として働いていたためです。小さかった頃は、日本が戦争に勝っていたため、使用人のいる大きな家に住み、裕福な暮らしをしていたそうです。しかし日本が戦争に負け始めると、生活も苦しくなり、男の人はみんな戦争に連れて行かれました。

 最後は中国人やソ連軍の襲撃を避けるため、残された老人と女の人、子どもは逃げました。満州鉄道を歩いて敵から身を隠しながら逃げたそうです。

 その途中で、集団自決をしている日本人を何度も見かけたとのことです。祖父の集団も諦めて、「今持っている食料を全部食べて、みんなで死のう」となりましたが、まだ子どもだった祖父が「まだ死にたくない!」と叫んで抵抗したので、みんなで最後まで頑張ろうと決めたそうです。

 食糧が尽きてからは、その辺の草を食べ、田んぼの水を飲んで命からがら逃げたそうです。祖父はこの体験をしたので、なんでも食べ物に感謝して、おいしく食べられるし、苦しいことでも我慢できると言っていました。(徳島新聞)

新潟日報 2020/09/23