読者の皆さんから、戦時中の何げない日常の思い出を寄せてもらっている「#あちこちのすずさん」。連携する全国の地方紙やNHKなどにも、戦後75年を経ても色あせない、さまざまなエピソードが投稿として届いています。今回はその一部を紹介します。
忘れられない母の涙
藤原武正さん(75) 岩手県花巻市
母コユキが亡くなってもう18年。76歳だった。
戦時中、17歳で20歳の父・武二に恋したそうだ。家も近く、歩いて3分ぐらいの距離で時々会うのが楽しかったと、母は頰を赤くして話したことがあった。
母は、父は背が高くいい男だったこと、川に行ったり山菜採りに行ったりしたことを、思い出しながら話してくれた。そしてその年、結婚したそうだ。
嫁さんになって間もなく、父は軍隊に召集されてしまった。私が生まれたのは翌3月、母は18歳の時、大きく生まれた男の子である。当時はよくやったとほめられたようだ。
父は戦地に向かう前に1回だけ家に帰ったことがあった。私を抱いて涙を流してくれたそうだ。母も一緒に泣き、戦地に行かないでほしいと何回も頼んだ。憲兵に捕まって牢屋(ろうや)に入ってもいいから近くに居てほしいと一生懸命頼んだが、父は行ってしまった。靴が合わず、足が傷だらけで、その足をひきずりながら。
その年の8月、戦争は終わった。母は父の帰りをひたすら待った。
3年ほど過ぎたころ、姑(しゅうとめ)のいじめがひどくなってきた。まだ小さい私がいたずらすると、母は土間に正座させられて説教をされた。私には怒ったことがなく、頭をなでてくれたという。
そのころ、父の戦死の報告があり、母は何も分からない私を抱いて一晩中泣いた。遺品は何もなく、母は信じられなかったと、じっと自分の手を見ながら話した。農家に嫁いだ母は、人手不足のため実家に戻ることはできず、父の弟と結婚することとなった。
いつの日だったか、母が私に「すまなかったね、あのとき無理にでもおまえと実家に帰っていればよかったね」と話したことがあった。中学3年の三者面談の時のこと。母は初めてきれいな着物を着て、学校に来てくれた。
先生は「藤原君は高校に入れると思いますがどうしますか」。母は下を向き、「うちは、貧乏なもので、とても高校は無理です」。私も無理なことは分かっていたので「農家で働きます」と答えた。
「ラーメンでも食べて行くか」。母は、そう言って、初めて2人で向かい合わせでラーメンを食べた。
母は「ごめんな、うちでは余計な金だせねんだと。かにしてけろな」って、息子の前で大粒の涙を流した。その時の母の悔しさと私に対する精いっぱいの感情が今でも心に残っている。
人を思いやる心を持った、踊りの好きな、明るい笑顔の母。今ごろ戦死した父と会ってますか。75年前に戻り、2人楽しんでください。(岩手日報)
家に見知らぬ男性が
女性(80) 神奈川県
新潟県の山村に生まれた。生後40日ほどで、父は出征し、私が小学生のときに帰還した。
疎開者が増えて、家の蔵も住宅にした。学童も増えて、教室はガタつく木机でいっぱい。教科書も足りないので2人で使った。曲がった鉛筆と消しゴムですぐ破れるノート。それも足りなくて、くじ引きが行われた。
上品な都会っ子は、わんぱくにいじめられて泣いていた。女子はお手玉でよく遊んだが、お手玉やまりつきをするときの歌にも兵隊さんが登場した。
おやつは毎日、お芋。オキナワという黄色くて大きな芋が、量が採れるので流行した。母は蜂蜜状の芋飴(あめ)をよく作ってくれた。竹串にくるくる巻いて食べる。べっ甲色の芋飴は最高だった。自分は食べずとも、家族に食べさせるのに必死だった若い母を思う。
ある日、知らない男性が来て、私は恥ずかしくて隠れた。
復員してきた父だった。きりっとした脚にゲートルがとても美しく巻かれていたのが忘れられない。母は泣いていた。その脚に、撃たれて貫通した傷痕がしこりになっていたことを、後で知った。(神奈川新聞、絵も)
新潟日報 2020/09/21















