私たちの隣人はもう正気を失ってしまった-。痩せこけた子どもがこんな歌詞を口ずさむ。街角で大人が配給のパンを巡り殴り合う

▼その様子を壁画に描かれたスターリンが見下ろす。旧ソ連の独裁者は小麦の束を手に誇らしげだ。約90年前、旧ソ連のウクライナで大飢饉(ききん)があった。3年前に製作された伝記映画「赤い闇 スターリンの冷たい大地で」で知った

▼彼が指導する集団農業の失敗が原因だ。かの地は「欧州のパンかご」と呼ばれるほどの穀倉地帯。なのに農民は種もみまで国に取り上げられた。干ばつや冷害による凶作なら天災だ。だが政権が国民の飢えを知りながら収穫を奪えば人災や虐殺になる

▼惨劇は「ホロドモール」と呼ばれ、1990年ごろまで史実は闇の中だった。ロシア文学者の故・木村浩さんが紹介した現地報道によると餓死者は1日2万5千人、1年で700万人に上った。正確な記録はなく、犠牲者は1千万人を超すという説もある

▼木村さんは、飢饉を隠ぺいしたのは社会主義体制下での誤りを表沙汰にしないためではないかと推し量った。いまウクライナに侵攻したロシアは、戦火の下の現実から自国民の目をそらそうと躍起になっているようだ

▼ウクライナでは1千万人を超える人々が家を追われた。その規模はホロドモールを想起させる。スターリンは飢饉や大粛清を引き起こしたとして、負の遺産を歴史に刻んだ。ウクライナへの侵攻を命じたプーチン大統領は、どんな代償を払うことになるのか。

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