その名優の映画デビューは、ほろ苦いどころか散々だったようだ。大作時代劇「七人の侍」の撮影現場。エキストラで参加した若者が浪人として歩く冒頭のシーンに挑んだが、朝から何度もNGが出た

▼「歩き方がなっていない。腰をふわふわ動かすな!」。叱られ続けたのは仲代達矢さん、声を荒らげていたのは黒澤明監督である。「ちくしょう」とやり直すが、周囲のスタッフからも罵詈(ばり)雑言が飛ぶ。ほんの数秒間の場面なのに、OKが出たのは午後3時。俳優養成所2年生の身には「映画に向いていない」という屈辱感が残った

▼数年後、黒澤作品「用心棒」の出演を打診されたが、当初は渋った。かつての苦い体験がそうさせた。監督は説得した。「そのことは覚えている。だから君を使うんだ」。怒声の裏には温かな思いがあった

▼その後「影武者」「乱」では主役を張り、黒澤・仲代コンビによる大作は邦画史に残る輝きを放つ。仲代さんは、屈辱の一日は新人に大監督が熱血指導したぜいたくな時間だったことを知った。その後は後進に「歩けるようになるまで3年かかる」と指導するという。自伝「遺(のこ)し書き」に記している

▼新天地で春を迎えた人は時に迷いや葛藤を抱くこともあるだろう。でも誰もが最初から上手にできるわけではない。道を究めた人でも駆け出しの頃は…というエピソードは小さな励ましになる

▼たとえうまくいかなくても進み続けてみようか。名優によれば、歩けるようになるには3年かかるのだから。

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