長岡中の卒業写真に写る山本五十六
長岡中の卒業写真に写る山本五十六

 北信越高校野球県大会が11日に開幕し、長岡市では悠久山球場で熱戦を繰り広げる。3年生が引退した新チームで来春の選抜高校野球への出場を目指す球児たちに、多くのファンが声援を送る。長岡市出身の旧連合艦隊司令長官・山本五十六も旧制長岡中時代に、新潟県の高校野球の前身とも言える旧制中学の初の対抗戦に熱中し、観戦記を書き残しており、五十六の野球愛を今にとどめている。

 長岡高校野球部の名簿には、1901(明治34)年卒のメンバーに山本(高野)五十六の名がある。中学5年の時には学年別の校内野球大会で3番、遊撃手として活躍したという記録も残されている。

 五十六の観戦記「野球競技記事」が載っているのは、長岡中の生徒会誌「和同会雑誌」21号(1899年12月発行)で、長岡中4年だった五十六が「素水生」のペンネームで寄稿。長岡中野球部が創設された翌年の99年11月に、長岡中のグラウンドで行われた新潟中、高田中野球部との県内初の対外試合「3校鼎立(ていりつ)戦」を記録している。

 「梧桐(ごとう)一葉飛んで天下の秋を報す」の一文で始まり、3校対抗戦が実現した経緯とともに、試合展開を実況中継のように事細かに記している。

山本五十六が少年時代に寄稿した野球観戦記。旧制長岡中の生徒会誌「和同会雑誌」に残されている

 高田中との一戦は、先頭バッターが血気盛んに相手ピッチャーへ立ち向かう様子を「躰(からだ)を捻(ひね)つて、真向より投付くる熱球、見事と打ちつけて敵胆を挫(くじ)かんと」と表現。「之れぞ我校に隠れなき、SS(遊撃手)阿部寛君とぞ見受けられぬ」と褒めたたえている。

 しかし、試合は高田中の猛攻を受け、9-22の大差で屈した。「大敗の恥辱を蒙(こうむ)ふるの已(や)むを得ざるに至れり矣」としており、悲嘆にくれる様子が伝わってくる。

 五十六が観戦記の執筆を任されたことについて、長岡高の教員時代に野球部長を務め、同窓会の前事務局長の岡村清さん(78)=長岡市浦=は「記念すべき対外試合を記録に残そうと、ルールを熟知し、成績が良く文才もあった五十六に白羽の矢が立ったのだろう」と推測する。

 3校対抗戦の一角を成した高田中の後継である高田高校の野球部OB、佐久間曻二(しょうじ)さん(93)=横浜市=も、野球を愛した少年時代の五十六に思いをはせる。「新潟県の野球の草創期に関わっていたのは驚きだし、感慨深い」と語る。

 五十六は日米開戦に最後まで反対し、平和を願ったとされる。戦後80年の今年、県高校野球連盟の理事長も務めた岡村さんは「今の球児が甲子園を目指して打ち込めるのは、平和な世の中があってこそ」と話し、球児たちが五十六の思いを受け継いで、堂々とした戦いを見せてくれることを願っている。...

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