巨大な原子雲に覆われた長崎市(原爆さく裂の約15分後に撮影、撮影者・松田弘道氏、長崎原爆資料館所蔵)
 巨大な原子雲に覆われた長崎市(原爆さく裂の約15分後に撮影、撮影者・松田弘道氏、長崎原爆資料館所蔵)
 故渡辺千恵子さんの写真パネルと渡辺さんが乗っていた車いす=3月、長崎市
 渡辺千恵子さん(左)と母親のスガさん=1960年ごろ、長崎市内の渡辺さんの自宅で撮影(長崎総合科学大学長崎平和文化研究所提供)
 第4回原水爆禁止世界大会で、抱きかかえられながらスピーチする渡辺千恵子さん(左)=1958年8月、東京都内(長崎総合科学大学長崎平和文化研究所提供)

 ノーベル平和賞が日本原水爆被害者団体協議会(被団協)に授与されてから10日で1年となる。平和賞が今後も「核兵器のない世界」を目指す希望の光になり続けると思う一方で、今年8月に原爆投下80年という節目が過ぎ去り、広島と長崎以外の都道府県で、関心が薄れないかを危惧している。

 長崎を最後の被爆地に―。地獄の猛火に苦しんだ被爆者たちが粉骨砕身の努力で築き上げた「核のタブー」を継承し、国際的な核軍縮につなげるには何が必要なのか。

 長崎原爆で下半身不随の寝たきりになりながらも、不屈の精神で核廃絶と平和を訴えた故渡辺千恵子さんが残した言葉を紹介して、問題意識を共有できればと思う。

 私事になるが東京から長崎...

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