古くから沖縄で使われる「肝苦(ちむぐ)りさ」という言葉は、作家の灰谷健次郎さんの著書で知った。他人の苦しみを自分のものとして分かち合う「胸が痛い」の意味で、かわいそうのニュアンスとは異なる

▼灰谷さんは小説「太陽の子」の登場人物に肝苦りさを語らせる。〈口先だけでかわいそうやなんていうてる奴(やつ)ほど、痛いこともかゆいこともなんにも感じてない奴や。痛いこともかゆいこともないことをいうてるから、痛いめにあう人間がちっとも減らんのや〉

▼石原宏高環境相の記者会見が、この言葉を想起させた。かけ離れた言葉としてだ。大臣は新潟水俣病の第2次行政認定訴訟で原告全員を患者と認めた判決への受け止めを問われ、「訴訟の当事者ではない」「新潟県と新潟市の対応を注視したい」と答えた

▼裁判の被告は確かに県と市だが、国の患者認定制度そのものを問う裁判だ。認定制度がどれだけの被害者をさいなませてきたか所管大臣に認識がない。その上、県と市が救済制度の見直しを要望し続けてきたことは「把握していない」そうだ

▼判決に対し、県と市は控訴した。国の制度に沿って国の代行で認定審査をしてきた立場での判断のようだが、大臣が県と市の対応を注視するなどと涼しい顔で言ったのだ。お伺いなど立てず、県と市の分別で決断すればよかったのだ

▼裁判は認定基準と同時に、公害行政を担う責任者らの人間性も問うものではなかったか。痛くもかゆくもないまま、大臣は時期が来れば退任してゆく。

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