1945年の第2次世界大戦終結から今年で77年になります。大戦中、新潟県内で最も大規模な空襲に見舞われたのが長岡市です。今シリーズの初回は長岡空襲についてです。
Q 空襲でどのくらいの被害があったの?
A 米軍の爆撃は45年8月1日午後10時半から1時間40分、続きました。B29爆撃機125機が16万発もの焼夷(しょうい)弾を降らせ、市街地の8割が焼き尽くされました。長岡には7月に模擬原爆も投下されていて、死者は合わせて1488人に上りました。
Q どうして長岡が狙われたの?
A 空襲は東京や大阪などの大都市から地方都市に広がりました。米軍が攻撃目標にした180都市のうち新潟市の順位は32番目、長岡市は73番目でした。新潟は原爆投下の候補地だったため、長岡が標的になりました。戦争が77年前の8月15日に終わらなければ、135番の三条市や168番だった高田市(現在の上越市)も空襲されたかもしれません。
Q 被害の記憶はどう受け継がれているの?
A 戦争の体験者は年々少なくなります。長岡市は悲劇と平和の尊さを伝えるため、2003年に長岡戦災資料館を開館しました。犠牲者の遺影、遺品などを所蔵、展示しています。長岡花火は戦後、戦災復興と慰霊の願いを込め、復活しました。1日に打ち上げられる白一色の「白菊」は鎮魂の花火です。












