“原爆の犠牲”が史上初めて出たのは長岡市だった-。広義にはこんな言い方もできるのでは。1945年、信濃川に近い左近町のイモ畑に原子爆弾を模した爆弾が投下され、4人が亡くなった

▼駆け出し記者のころ、この模擬原爆で家族を失ったおばあさんに話を聞いた。それ以来、鎮魂の夏が巡り来ると、そんな思いがよぎるようになった。米国が原爆実験を成功させたのは45年7月16日だ

▼そのわずか4日後の20日、B29が10機、長岡や東京、富山などを空爆する。積み込んだ大型爆弾は長崎に投下された原爆と同型の「パンプキン」。中身はプルトニウムではなくTNT火薬だった

▼広島平和記念資料館などによれば、模擬原爆は最初の20日から終戦前日まで49発が落とされ、1600人を超す死傷者が出た。柏崎市と阿賀町にも投下された。原爆攻撃の演習である。そう考えると、長岡市は最初の“原爆被災地”ともいえる。原爆投下目標だった新潟市は、作戦変更で被爆を免れた

▼それだけに核兵器禁止への願いは、本県はひとしおのはずだ。核拡散防止条約(NPT)再検討会議が米国で開かれている。被爆地広島が選挙区の岸田文雄首相が演説し「核なき世界」を訴えた。しかし、ロシアが核攻撃をほのめかすなど、強い逆風が核軍縮に吹く

▼核は77年前の広島と長崎の2発から1万3千発に増えた。一方で、被爆体験者は激減した。「私らが死ねばみんな忘れる」。左近町のおばあさんのつぶやきを、現実にしてはならない。

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