豊臣秀吉は筆まめだったという。生涯に送った書状は約7千通に上る。ただ、そのほとんどは右(ゆう)筆(ひつ)が代書したものだ。本人は末尾に花押を入れるだけ。かつて武将や貴人の傍らには文筆に通じた右筆という名の書記官がいた
▼現代で言えば代書業に当たる。役所に提出する文書の作成を請け負う行政書士のほか、手紙や品書き、看板などの執筆を担う職業もある。そんな代書を手掛ける女性を主人公にしたのが小川糸さんの小説「ツバキ文具店」だ
▼時には風変わりな依頼が舞い込む。離婚のあいさつ状、借金のお断り、友人への絶縁状…。主人公は依頼の内容に合う文字の書体や墨の濃淡、筆記用具の種類や便せんの紙質に至るまで吟味に吟味を重ね筆を執る。「心尽くし」とは、こういうことを指すのだと思わせる
▼だからといって能筆をひけらかしたりはしない。代書屋の先代だった祖母は言う。「誰も読めないような字で書いたんじゃ、粋を通り越して、野暮(やぼ)ってもんだよ」。どんなに美しい字を書いても、真心が伝わらなくては意味がないということだ
▼面と向かってうまく言えなくても手紙なら伝えられることがある。心が少し疲れた時、再度読み返したくなる物語だ。この作品のシリーズ第3作となる「椿(つばき)ノ恋文」の連載が本紙で始まった
▼初回はそっくりそのまま、主人公からのあいさつ状の文面だった。懐かしい人から久しぶりに手紙をもらった気になった。胸の奥がほんのりぬくもるようなストーリーが紡がれるのだろう。