車を運転して交差点を右折しようとした時のこと。左折のウインカーを出した対向車がなかなか動かない。進路を譲らねばならないような車や歩行者は見当たらない。こちらも動けず当惑した

▼対向車を運転していたのは、かなりの高齢者のようだった。イライラが表情に出ていたのだろう。助手席の老母がいさめるように言った。「あなたもいずれ、ああなるんですからね」。確かにそうだ

▼運転免許を持たない母は、日に数本しかないバスで病院に通う。持病を抱え、杖(つえ)なしでは歩くのもやっとだ。免許を手放せない高齢者の心情が分かるのだろう

▼「強者もいずれ弱者になる」と説くのは、老いについて多くの著書がある東京大名誉教授の上野千鶴子さんだ。かつて読んだSF小説のことを思い出す。ダニエル・キイスの「アルジャーノンに花束を」である

▼知的障害がある主人公の青年は、脳の手術を受けて知能指数が急上昇する。その頭脳は「天才」と言えるレベルになるが、次第に人を見下すようになる。しかし、手術には欠陥があった。知能は徐々に失われ、元の知的障害者に戻ってしまう

▼青年の知能が向上し、やがて衰退していく姿は、少々大げさに言えば人の一生に通じるものがある。一人では何もできない子どもの時代から成長し、働き盛りには人生を謳歌(おうか)するが、老いとともに衰えていく

▼この身もいずれ、免許を返納する時が来るかもしれない。願わくは、高齢者が移動の心配をせずに済む未来になっていてほしい。

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