終戦の日に合わせ本紙窓欄が戦争の記憶をテーマに投稿を募集したところ、70通が寄せられた。内容は悲惨な戦場、空襲の恐怖、肉親を失った悲しみとさまざま。記憶に残った日も人それぞれだった

▼掲載はされなかったが、新潟市東区の江部綾子さん(97)は1945年8月12日の体験について寄せた。11日に県知事は原爆が投下される可能性があるとして新潟市民に疎開を求めた。「まちから人の姿が消え異様だった」

▼江部さんは翌日、夜明けを待ち自転車で旧横越村の母の実家へ急いだ。「生きた心地がしなかった」。ペダルを何時間こいだのかすら、もう思い出すことができない

▼13日付に掲載された三条市の小倉高子さん(57)がつづったのは祖父が29歳で出征した43年5月30日のことだ。祖母は25歳。幼い長女を抱えて、新たな命を宿していた。祖父母は自宅からほど近い、小さな橋で別れた

▼別途話を聞かせてもらった。この年に生まれた次女を、祖母は「カツ」と名付けたという。「戦争に勝てば祖父は無事に帰ってくると考えたのではないか」と小倉さんは推し量る。祖母は2001年に83歳で亡くなった。認知症を患い、家族を別人と間違えることもあったが橋での別れは覚えていた

▼〈八月や六日九日十五日〉。広島原爆の日、長崎原爆の日、終戦の日を順に並べたこの句は、日本人の心に重く響く。三つの日のほかにも、一人一人に忘れられない日があった。それらをしっかりと引き継いで平和を守らなければならない。

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