新発田では大きな火事があると「与茂七火事」とか「与茂七のたたり」と言われた。義民、大竹与茂七は農民を助けるために庄屋から借りた金を巡るトラブルで、新発田藩の奉行所の裁きにかけられ打ち首になった
▼七回忌にあたる年の、裁きにあった同じ日に新発田城下は大火に包まれ、与茂七の怨霊のなせる業とされた。昭和に入った1935年の火事までも、新発田の人たちはそう言った
▼日本人の心の中では古来、怨霊が跋扈(ばっこ)した。人々は災害や疫病が流行すると、恨みと共に死んだ人のたたりだと信じた。為政者は政敵らの怨霊を恐れた。作家、永井路子さんの「悪霊列伝」によると、50人以上の子を成して豪奢(ごうしゃ)を極めた徳川11代将軍家斉でさえそうだった
▼病気を患った際「死霊のたたり」と告げられて以来怨霊を恐れ、ある寺への帰依を深めた。その寺は側室の実家。付属の寺を造ってもらうなどして大いに栄えた。永井さんは、その怨霊を「仕組まれたでっち上げ」とする。仕組んだのは、言うまでもなく側室の実家だ
▼この話は不安につけ込んで怨霊をつくり上げ、利益をむさぼる輩(やから)がいる良い例だ。旧統一教会などの関わりが指摘される霊感商法も「先祖のたたりだ」などと不安をあおり、金をせしめる
▼「悪霊などはもともと存在しない。信じるものの中だけに棲(す)む」。永井さんはこう言い切る。人の心は弱いもの。そんな胸の内をもてあそび、心を操ったり金品を巻き上げたりする行為こそ、悪霊のような存在だろう。