おかっぱの髪に、もんぺ姿がトレードマークだった。本紙読者文芸の選者を30年余り務めた俳人の黒田杏子さんが世を去った

▼大学在学中に本格的に句作を始めた。広告代理店入社後は「俳句をつくるキャリアウーマン」として脚光を浴びた。テレビで人気の夏井いつきさんが俳句にのめり込んだのも黒田さんがきっかけだ。軽やかな作風に「物事をこんな風に切り取れるってかっこいい」とあこがれた。今も師と仰ぐ

▼結社「藍生(あおい)」を主宰し30年余り。「季語の現場へ」をモットーに、全国の桜を行脚するなどした。佐渡市宿根木では石仏が並ぶ岩屋洞窟の前でチョウが飛び立つ姿を詠んだ。〈磨崖佛(まがいぶつ)おほむらさきを放ちけり〉。現地には碑も立つ

▼平和への思いも人一倍だった。「俳句は平和であってこそ」と繰り返し、戦争を経験した俳人の証言集を編んだ。東日本大震災後は「原発忌」を積極的に季語として使った。〈原発忌福島忌この世のちの世〉

▼風土のにおいや生活感があふれる日報俳壇に「素朴で素直。一人一人の作品に真心がある」と目を細めた。黒田さんの強い薦めで句集を出した常連投稿者もいた。出雲崎町の漁師、斉藤凡太=本名・房太郎=さんだ。句集は完売し、全国メディアも取り上げて話題になった

▼昨年2月に凡太さんが95歳で亡くなると、多くの追悼句が寄せられた。〈春めくや凡太翁の遺志を継ぐ〉。詠んだ五十嵐翼さんは20代。黒田さんが愛し、育ててくれた日報俳壇の真心が受け継がれていくといい。

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