こんな問いを投げかけられた。「もらえるとしたら本物の千円札とコピーした千円札と、どっちがいいですか」。紙幣のコピーは違法なので、あくまでも想像の話

▼問いを発した男性は少し前まで大学で芸術を教えていた。取材に応じてもらった後の世間話が長くなり、気が付けば一緒に駅前で焼き肉をつついていた。「もちろん本物が欲しいです」「当たり前ですよね」。そんな会話から始まって、芸術家としてのこのごろの思いがあふれていった

▼感染禍で芸術は不要不急の分野と言われ、創作に触れてほしくても触れてもらえない期間が長かった。一時、美術館が遠くなった。ネット空間で作品を鑑賞してもらう試みが広がったが、スマートフォンの小さな画面で見てもらうのは本意ではない

▼「写しは写し。やはり本物じゃないと」。実物を間近に見てもらうのが願いなのだ。2次元の画面では伝わらない作品の質感や隆起、そういったものに目を凝らし、細部に込めた意図を感じ取ってほしいのだという

▼「音楽だってデジタルの音をイヤホンで聴くのとライブ会場とでは違うでしょ。会場だと一層心が高ぶりますよね」。男性との会話がもしオンラインだったら、こうした吐露を聞くこともできなかったろう。感染禍がいかにもどかしい耐乏の期間であったか改めて考えさせられた

▼「県展」として親しまれる県美術展覧会の季節を間もなく迎える。そこには芸術に接する喜びがある。細部にまで目を凝らし、作者の心に触れたい。

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