
相沢マチ子・竹中悦子の名を聞けば、懐かしさに声を上げる読者がいるだろう。2人は私にとっても数少ない「希望の星」だった。
私は1956(昭和31)年に生まれた。新潟県長岡市で多感な時期を過ごした野球少年は、劣等感の塊だった。当時甲子園は富山県代表に勝たないと出られなかった。新潟県の高校は、甲子園にはなかなか出られない、甲子園に出てもすぐ負ける。プロ野球選手はほぼ皆無。新潟に生まれた自分が恨めしかった。新潟生まれは全国で通用しない、と失望していた。
ところが、絶望を吹き飛ばす救世主が現れた。それが相沢・竹中組(新潟青陵女子短大)だった。68年、全日本バドミントン総合選手権女子ダブルスで優勝。毎朝むさぼるように新聞を読むのが日課だった小林少年は、紙面に躍る相沢・竹中の見出しに歓喜した。「新潟だって勝てるんだ」と。
卒業後2人は、自社ブランドのラケットを作り始めてまもないヨネヤマラケット(現ヨネックス)に入社、72年には全英オープン女子ダブルスで優勝した。世界で最も歴史ある大会を制覇したのだ。
新聞の写真で見る相沢・竹中の真っ白いスコート姿は少年にはまぶしく、そして2人ともきれいだった。私が最初に憧れた女性たちだったかもしれない。


その2人に初めて会えたのは、つい3年半前。くしくもヨネックスの創業者・米山稔の葬儀の席だった。あの時代、新潟からどうやって世界に羽ばたけたのか? 尋ねると竹中(現姓・栂野尾)が話してくれた。
「阿部一佳先生のおかげです。あの時代に、最新の理論と練習方法で指導してくださった。猛練習だけでなく、休日には映画館や美術館に行きました。世界一になるには、世界一にふさわしい女性になろうと」
竹中の話を聞いて、どうしてもその指導者に会ってみたいと強く思った。その願いが今回ようやく...