「安全」と「安心」は似て非なる言葉だ。安全性は科学的・客観的に評価できるのに対し、安心するかどうかは、その人の心の持ちようによって変わる
▼「安全性と安心は別だと思うので…」。福島県いわき市の内田広之市長がこう述べるのをテレビのニュースで見た。東京電力福島第1原発の処理水の海洋放出を巡り、住民らが安心できるような取り組みを政府や東電に求めていた
▼海洋放出について、政府は科学的に安全だと説明している。国際原子力機関(IAEA)のお墨付きも得たと強調する。ただ、仮にこれが正しいとしても、安全が必ずしも安心に結びつかないのが人間の心というものだ
▼安心を生むものとしては「信頼」を挙げることができる。今回について言えば、政府や東電に対する信頼である。果たして両者の言動は、人々から信頼を得るに足ると言えるだろうか
▼両者は福島県漁業協同組合連合会と「関係者の理解なしには(処理水の)いかなる処分もしない」と約束を交わしている。県漁連の理解はまだ得られていないが、今夏ごろの放出に向けて着々と準備を進める様子は漁業関係者の目にどう映るだろう。不祥事続きの東電の姿も、信頼を得るには程遠い
▼海洋放出による風評被害を心配する人は多い。負の風評をつくりだすのは、安心感が希薄であることだ。安全を強調するだけで、安心してもらうための手だてを置き去りにしてはいないか。予定通りの放出に前のめりになるばかりでは、安心は生まれない。