東京・世田谷の俳優養成塾「無名塾」のそばには急な坂がある。塾の壁の銘板には、こんな言葉が。「若きもの 名もなきもの ただひたすら 駈(か)けのぼる」

▼演技を志す「若きもの」「名もなきもの」が、教えを受けようと集まった。映画「パーフェクトデイズ」でトイレの清掃員を演じ、カンヌ国際映画祭で男優賞に輝いた役所広司さんもその一人。かつては、舞台で喝采を浴びる日を夢見て坂を上った日もあったのではないか

▼カンヌから帰国後、郷里のスイカを持参し、恩師で無名塾主宰の仲代達矢さんを訪ねたという。仲代さんは、玄関先で拍手して出迎えた。役所さんの芸名の名付け親でもある

▼その仲代さんが師と仰ぐのは、映画監督の故小林正樹だ。駆け出しの頃、大作に抜てきされた。「出演作から生涯の一本を選べと言われれば小林監督の『切腹』です」と語る。くしくも、1963年のカンヌで審査員特別賞に輝いた作品である

▼小林は大学時代、新潟市出身の歌人で書家の會津八一の下で東洋美術を学んだ。撮影現場でも八一への敬慕をよく口にした。仲代さんに「ふかくこの生を愛すべし」など四カ条からなる八一の「学規」を授けた。八一が門下生らに渡した指針だ。だから仲代さんは「恩師の、そのまた恩師が會津八一」と語り、八一の孫弟子を自任する

▼孫弟子の弟子だから…役所さんは八一のひ孫弟子? こんな系譜をこじつけることもできようか。八一の心は、役所さんの中で生きているのかもしれない。

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