(イラスト)報道部・高橋佐紀
(イラスト)報道部・高橋佐紀
榎並秀栄さん(左)から戦時中の食糧不足の思い出などを聞く荻原美侑さん(右)=2021年7月、新潟市中央区
榎並秀栄さん(左)から戦時中の食糧不足の思い出などを聞く荻原美侑さん(右)=2021年7月、新潟市中央区
小学5年生(当時は国民学校)の時の榎並秀栄さん。海洋少年団の制服を着ている=1942年撮影
小学5年生(当時は国民学校)の時の榎並秀栄さん。海洋少年団の制服を着ている=1942年撮影

 「生活はどのように厳しかったのでしょうか」「食糧不足でご飯は大根をまぜたものでしたよ」。ふむっ子記者で新潟市新津第三小5年、荻原美侑さん(11)が、戦時中の暮らしを知る榎並秀栄さん(90)=新潟市江南区=から食べ物や、お金をもらわずに働く「勤労奉仕」の思い出を聞きました。

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 太平洋戦争が始まった1941年、榎並さんは10歳。食べ盛りの子ども時代、食糧不足はつらい記憶です。

 コメを手に入れるため、榎並さんのお母さんは自分の着物を持って農家に物々交換に行きました。呉服店から嫁いだので絹製のきれいな着物ばかりです。しかし、農家では畑仕事で着る木綿製の方が求められ、断られることもありました。「片っ端から頭を下げて回っていました」と榎並さんは顔をしかめます。

 野草を摘んで炒め物やおひたしにして食べたこともありました。榎並さんの両親は子どもたちに食べさせようと自分たちの食事は減らしていたそうです。

 荻原さんは「私はご飯をおかわりすることが多いので、大変だったと思います」と話し、当時の暮らしの厳しさを想像しました。そんな暮らしの中での楽しみやうれしかったことも聞きました。

 榎並さんは勤労奉仕で農家に草取りの手伝いに行った時のことを思い返しました。「でっかい白米のおにぎりをもらったのが楽しい思い出ですね」と笑顔を見せました。

 荻原さんは終戦を知った時の気持ちを質問しました。「うれしかった。ほっとしたねえ」と榎並さんは振り返りました。

 「毎年の終戦の日の気持ちはどうですか?」。続けて聞きました。「戦争をやっちゃいけないということを若い人たちに分かってもらいたいという気持ちが強くなります」と榎並さん。荻原さんは深くうなずき、そのメッセージを受け取りました。

ふむっ子記者 荻原美侑さん(11) 戦争のつらさ考えたい

 榎並さんが戦時中の体験談を話されている中で、何度も何度も「戦争はもう二度とやってはいけない」と言われていました。とても大変な思いをたくさんしたそうです。

 例えば、食料不足や勤労奉仕です。勤労奉仕は、学校で勉強せずに工場に行って部品を作ったり、グラウンドを畑にして麦や大根、さつまいもを作ったりしたそうです。だれが食べるのか分からないけど、先生や友達と夢中になって作りました。

 食べ物が少なくお母さんの着物一枚一枚を農家の人の所へ持っていって頭を下げて食材をもらっていたそうです。当時、真っ白いご飯はほとんど食べたことはなく、大根飯や大根の葉っぱ飯、道ばたに生えていた野草を摘んでおひたしやごまあえにして食べました。いつもおなかがすいていて、食べ物がなくてつらかったと話されていました。ご両親はいつも育ち盛りの子どもたちに先にご飯を食べさせてくれて、残り物を食べているところを見るのもつらかったそうです。

 また、近所のお寺や旅館に東京から学童疎開で家族とはなれて生活している子もたくさんいて、小さい子どもたちの面倒も見ていたそうです。東京は空襲で焼け野原になり、まだ小さい子の暮らしが変わってしまう場面を見て「こういう目にはあわせてはいけないと強く思った」と話してくださいました。

 だから終戦を知った気持ちは「うれしくて、ほっとした」と言われていました。大人は敗戦を聞いてくやしがって泣いていた人もいたそうです。榎並さんは終戦後、戦争に関する内容がのっている教科書をすみで黒くぬりつぶさなくてはいけませんでした。真っ黒になった教科書を見ることは、本当につらくて、くやしくて教科書を見たくなかったと言われていました。

 毎年終戦記念日の8月15日には、「戦争当時のころを思い出して悲しくなるけど、年がたつにつれて記憶はだんだんうすくなっていく。でも、戦争はくり返してはいけないという気持ちがどんどん強くなっていく」と話されていました。

 私は、榎並さんの戦時中の体験談を聞いて、二度と戦争をくり返してはいけないと感じました。そのためには榎並さんから聞いたつらい体験などを私の友達やたくさんの人に伝えていきたいと思いました。

 今年の終戦記念日には、戦争を体験した人の気持ちを考えたいと思いました。みなさんも戦争のつらさ、苦しさを知り、二度と戦争をくり返さない世界にしましょう。

新潟日報 2021/08/13