「痩せた姿を見て祖父は泣いたそうです」。母の山崎和子さん(2019年に91歳で死去)が女子挺身隊(ていしんたい)から帰郷した時のことを、娘の山口順子さん(63)=新発田市=はこう聞かされた。太平洋戦争中、名古屋市の軍需工場に動員された和子さんは、少ない食事に苦労し、見た目が変わるほど痩せてしまったという。
和子さんは1927年に新潟市で生まれた。二葉高等小学校を卒業すると、みその割り当てや点検などを担った地元の統制会社に14歳で就職した。その後、女性で構成された奉仕組織である女子挺身隊として石川県小松市の戦闘機製造工場に勤労動員された。しかし部品調達が困難になったのか、しばらくすると名古屋の工場に移った。
名古屋では「風船爆弾」を造ったと聞いている。気球に爆弾を付けて飛ばし、アメリカ本土を攻撃するために開発された兵器だった。気球は和紙にこんにゃくのりで接着した紙風船だった。17、18歳の少女だった和子さんは紙にのりを付けてひたすら貼った。
生前、食べ物が少なかった寮暮らしを振り返り、よく語っていたという。食べることが大好きだった和子さん。ひもじい食生活に耐えきれず、ある時友達と食料庫に忍び込んだ。そこで見つけたのがたくあん。おけに手を突っ込み、1本丸々かじりついた。順子さんは「上司に見つかって怒られたそうです」と苦笑する。
またある時は、家族に「父親が具合が悪いので新潟に帰るように」とうその手紙を書いてもらい、一時帰郷した。「家では食べるものに不自由していなかったからつらかったのでしょう」と順子さん。名古屋へ戻る時は、母親がいり豆をたくさん持たせてくれ、寮の仲間に喜ばれたという。
そんな和子さんが、つらい思い出を語ることがあった。軍需工場が多かった名古屋は何度も空襲に遭い、寮も攻撃を受けた。だが偶然、映画を見に行っていたため難を逃れた。「仲間が亡くなり、自分も外出しなければ死んでいた」
終戦後、13キロ痩せて帰ってきた和子さんの容姿に家族は驚いた。順子さんは「母は太っていたから、元の会社に戻ったときも同僚に気付いてもらえなかったようです」と語る。
和子さんは21歳で結婚し、2人の娘を産んだ。「明るい母でした。戦時中の暮らしに耐えてくれたから今の私たちの幸せな暮らしがある」。順子さんはたくましい母に感謝した。
(報道部・小柳香葉子)
新潟日報 2020/10/19