(イラスト)報道部・高橋佐紀
(イラスト)報道部・高橋佐紀
独身時代の土賀マサさん(鈴木幸枝さん提供)
独身時代の土賀マサさん(鈴木幸枝さん提供)
鈴木幸枝さん
鈴木幸枝さん
「教科書は近所の子のお下がりでした」と振り返る山﨑静さん=南魚沼市
「教科書は近所の子のお下がりでした」と振り返る山﨑静さん=南魚沼市
	繊維を取る植物として活用されたアカソ(県立植物園提供)
繊維を取る植物として活用されたアカソ(県立植物園提供)

 「母は戦争によって夢を断念したんです」。佐渡市の鈴木幸枝さん(74)は母・土賀マサさん(2018年に95歳で死去)の思い出を話してくれました。

 マサさんは旧両津市に生まれました。8人きょうだいの長女で弟や妹の世話をしながらも勉強に励みました。教師を夢見ていましたが、父親に大反対され、一度諦めます。

 恩師に励まされ、家業を手伝いながら勉強を続けました。父親を説得し、進学することができました。

 教師になり、初任地は本土の小学校でした。3年目に6年生の担任を任され、張り切っていた時に父親から手紙が届きます。

 「もしもの時は一家そろって最期を迎えたい。至急、退職し帰郷すること」

 ちょうど戦争が激しくなっていた頃でした。マサさんは父親の意向に従い、佐渡に戻りました。落ち着いたら教師に戻ろうという思いを抱きながら。

 ただ、実家に帰ったらすぐに結婚することが決まっていました。相手はすぐに戦地に出征する人でした。「結婚したら教師には戻れない。本当にしたくなかったと言っていました」と幸枝さんは振り返りました。

 結婚式当日、マサさんは花嫁姿になっても柱にしがみついて抵抗しました。妹2人も抵抗に加わりましたが、しがみついたマサさんの指を仲人が1本ずつ引きはがしました。「結婚しなければ私たちはいません。母は笑いながら話してくれました」と幸枝さん。

 戦後に4人の子どもを産んだマサさんは教師に戻ることはありませんでした。マサさんは幸枝さんに「戦時中、やりたいことを我慢したのは私だけじゃない」とも言っていました。幸枝さんは「好きなことをやるのが一番だよ」と大学進学を応援してくれた母に感謝をし続けています。

襲来に備え はだしで 登下校

#あちこちのすずさん 山﨑静さん(87)=南魚沼市=

 太平洋戦争中、小学生だった南魚沼市の山﨑静さん(87)は「はだしで登下校したことがありましたよ」と思い起こします。敵の飛行機の襲来に備えた訓練でした。「逃げる時に靴を履くと手間取ってしまうからでしょうね」と話します。

 当時の小学校は国民学校と言いました。実際に敵の飛行機に襲われたことはありませんでしたが、子どもたちの暮らしも戦争に協力することが優先されていました。

 学校では、授業をせずに山に植物のアカソを採りに行ったことがありました。アカソから取った繊維を国に差し出すためだったそうです。「今ならそんなことで戦争に対応できないと思えるけど、当時は強制的でした」と山﨑さんは言いました。

 食糧不足も深刻でした。くず米を粉にしてお湯で溶いた「粉かき」が朝ご飯でした。「薄味だったの」と思い出します。甘いおやつもありませんでした。「若い人は理解できないことかもしれないけど、そんな時代があったことを知ってほしいです」と優しく語り掛けました。

新潟日報 2021/10/18