太平洋戦争末期、旧陸軍は「風船爆弾」と呼ぶ兵器を秘密裏に開発していた。以前、新潟市の映画館で見た長編ドキュメンタリーで知った。焼夷(しょうい)弾などをつるした直径約10メートルの気球で、偏西風に乗せ米国本土を狙った

▼製造には和紙が使用され女学生らも動員されたという。1944年から約9千個が放たれた。一部は海を渡りきって西海岸などに上陸し、オレゴン州では子どもらが犠牲になった

▼この無差別殺傷兵器を手がけたのは神奈川県にあった通称「登戸研究所」。毒ガスや偽札といった秘密戦の兵器、資材を陰で研究開発する機関だった

▼研究所はのどかな田園地域とも無縁でなかった。終戦間際の45年、地方に疎開した。長野県南部の宮田村の寺に本部を移転し、現在の駒ケ根市などにも拠点を置いた。空襲から逃れるとともに、当時想定された本土決戦への準備ともみられている

▼終戦後に証拠は焼却されたが、住民有志による聞き取り調査など息の長い取り組みで実態が浮かび上がってきた。今年、成果を刊行する資金を募っていると知り、わずかながら寄付をした。返礼として届いた書籍「信州伊那谷に来た謀略機関」には暗い事実が記されている。缶詰型爆弾を製造したこと、誤爆で児童らが重傷を負ったこと…

▼「戦後78年、疎開当時を体験された方は高齢になって、調査研究活動はますます難しく…」。礼状には、こんな言葉もあった。駒ケ根市民俗資料館で史料の常設展示を目指している。歴史の闇に光を当てたい。

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