中学時代のわが身を振り返る。通学路に踏切があり、毎朝のように大阪行きの特急を見送った。見知らぬ街に向かう列車は憧れの存在だったが、実際に乗ることはかなわなかった
▼乗りたくても乗れない。この人はどんな思いでその乗り物を見つめていたのだろう。在日コリアンの詩人、金(キム)時鐘(シジョン)さんは半世紀以上前、新潟港から祖国へ向かう船を見送った。在日朝鮮人の帰還事業は1959年に始まったが、日本語で詩誌を作る活動が祖国から批判を受けていた金さんは帰国を許されず、父祖の地を踏めなかった
▼代表作の一つの長編詩「新潟」は、日本に身を置くことを余儀なくされた金さんが「在日として生きる」覚悟を決めるための作品だった。新潟は祖国を分断する北緯38度線が通り、帰国船が出港する暗示的な土地だった
▼先ごろ刊行された「金時鐘コレクション」第3巻には、これまで活字化されていなかった創作ノートなどとともに「新潟」が収められている。金さんは「『新潟』ほど自分の人生を直接的に左右した作品はない」と振り返る
▼かつての東西冷戦時代を象徴したのが朝鮮半島の分断だった。世界では、今なお戦火が上がる。ウクライナ危機を巡っては、欧米とロシアとの間で新たな冷戦ともいえる状況が生まれようとしている
▼戦争や分断が人間の一生にどんな影を落とすのか。その身にどんな傷が刻まれるのか。ウクライナでの戦火が鎮まることを祈りながら、あらためて金さんの「新潟」を読み返してみたい。