報道の在り方に重い課題を残した事件を、私たちメディアは忘れてはならない。人権を守り、権力を適切に監視するために、自らを省みる機会としたい。

 1994年6月に、長野県松本市の住宅街でオウム真理教が猛毒のサリンをまき、本県出身者1人を含む8人が死亡した事件から27日で30年になった。

 県警は被害者で第1通報者の当時会社員だった河野義行さん宅を家宅捜索し、メディア各社は河野さんを犯人視する報道を続けた。

 サリンは、教団関係の訴訟担当だった長野地裁松本支部の裁判官宿舎を狙い、教団が河野さん宅近くの駐車場から散布した。

 しかし県警は河野さん宅を容疑者不詳のまま殺人容疑で捜索し、「一般の家庭にはない薬品を押収した」と発表した。

 メディア各社は「会社員が農薬の調合を間違えた」と、河野さんが有毒ガスを発生させたかのような印象を与える記事を掲載した。

 県警は事件から1年近くがたった翌95年6月に、河野さんの事件関与を正式に否定した。新潟日報社は記事を配信した共同通信社と共に、事件発生から1年に合わせ、本紙におわびを掲載した。

 河野さんは体調の急変を訴えて通報した純粋な被害者だ。妻の澄子さんは意識不明になり、闘病の末、2008年に亡くなった。

 守られるべき被害者を、犯人視する報道が深く傷つけた現実は重く、慚愧(ざんき)に堪えない。

 なぜ被害者が容疑者扱いされたのか。取材を担当した共同通信の記者は、河野さん「クロ説」をとる捜査当局の非公式情報に引きずられたと振り返った。

 事件当初、原因物質が特定されず、県警の発表情報が少ない中で、裏取りの不十分な情報が報じられたということだろう。

 メディアとして、あってはならないことだ。

 悔やまれるのは、原因がサリンと判明した後に、河野さん宅で押収された薬品ではサリンを生成できないことが判明したのに、訂正に至らなかった点だ。

 当時、サリンの情報は少なかったとはいえ、河野さんの犯行があり得るかどうか、検証を十分深めていれば、犯人視を避けられたのではなかったか。

 河野さんが搬送される際、家族に「駄目かもしれない。後は頼んだ」と伝えた言葉は、「大きなことになるから覚悟しておけ」とゆがめられた。報じる前に家族に当たり、事実を押さえたかった。

 不安な状況下で特定の人物を犯人視し、つるし上げるような場面は、新型コロナウイルス禍でも散見され、交流サイト(SNS)を通じて拡散された。

 ネット社会の現在は、間違った情報で無実の人が攻撃される危険性が高い。その恐ろしさを肝に銘じ、丁寧な報道を心がけたい。