
「製塩作業中、上空に米軍機が飛ぶこともあった」と振り返る苅部富雄さん=新潟市中央区
太平洋戦争の終結から8月15日で79年となった。戦いのさなか、子どもたちは学びの場から学徒動員で駆り出された。終戦を迎えても、空腹を抱える日々が続いた。大人が起こした戦争は、少年少女の目にどう映っていたのか-。当時、子どもだった人たちの記憶の糸をたどった。(5回続きの5)
■ ■
「次は新潟」-。広島への原爆投下を受け、そう判断した新潟県は1945年8月11日、新潟市民の強制疎開を命じる知事布告を出した。当時12歳で旧制中学1年だった新潟市中央区の苅部富雄さん(91)は混乱の中、家族で村上市に疎開、数日後に終戦を迎えた。玉音放送を聞き、涙があふれた。
苅部さんはこの年の春、新潟市立中学校(現新潟南高校)に入学した。日に日に緊迫する戦況に「授業どころではなかった」。入学直後から何度も警戒警報が発令され、米軍の爆撃機B29が上空を旋回。...
残り972文字(全文:1346文字)