桜餅が和菓子店のショーケースに並んでいるのを見つけると、うれしくなる。「いまの時季だけだし」と言い訳をしながら、買ってしまう。ぱくりとやると甘く、優しい香りが鼻腔(びくう)へ抜けてゆく。塩漬けにした桜の葉に宿る芳香だ。ああ、春だなと思う
▼桜餅に似た香りがする酒として知られているのが、ズブロッカである。ポーランド原産のウオッカだ。本県ともゆかりの深い作家、開高健さんは当地で味わったズブロッカを随筆でこんなふうに描写する
▼〈淡緑色で、芳烈である…くどい甘さなどどこにもなく、あくまで清冽である〉。開高さんはズブロッカともう一つ別なウオッカを買い込み毎夜、飲み比べたらしい。桜の下にいるような気持ちで酔えたのだろうか
▼ズブロッカの香りの元は「バイソングラス」という草だ。ポーランド東部の森に生息する巨大な野牛、ヨーロッパバイソンが好んで食べる
▼この地のバイソンは、乱獲のため1919年に絶滅した。第1次大戦で独立した新生ポーランド政府は、乏しい資金を投じて血統を継ぐバイソンを世界の動物園で探し、野生バイソンを復活させた。バイソングラスの香りは、取り返しがつかなくなる前になすべきことを思い出させてくれる
▼いまポーランドでは、隣国ウクライナの戦禍から逃れてきた人たちが避難生活を送る。失われるものの大きさは知っているはずなのに、人はなぜ暴力と破壊行為を繰り返すのか。開高さんをまねてズブロッカを口に含んでも憂いは晴れない。