日本の原風景と、豊かな農村文化をつないできた中山間地に激しく牙をむいた中越地震が、発生から20年を迎えた。
被災地が穏やかな時間の流れを取り戻した今、地震の復興から得た教訓を、改めて見つめ直したい。被災に立ち向かった20年の歩みを社会の共有財産とし、次代に継承していかなければならない。
川口町(現長岡市)を震源に最大震度7を記録した中越地震は、2004年10月23日に発生した。現在の8市町で関連死52人を含む68人が犠牲となり、住宅3千棟超が全壊した。
◆甚大だった土砂災害
国内有数の地滑り地帯における被災の実態は、都市型災害で火災が多発した阪神大震災とも、津波被害や原発事故の影響が広範に及んだ東日本大震災とも異なるところが多かった。
中越地震では崖崩れなど土砂災害が約300カ所に及び、道路の寸断で61集落の約2千世帯が一時孤立した。
年が明けた05年には19年ぶりの豪雪が復旧工事を阻んだ。激震で傷んだ建物を損壊し、農地被害を拡大させた。まさに雪国特有の複合災害となった。
地震で起こる被害は発生場所や季節によって大きく変わる。60年前の新潟地震や今年1月の能登半島地震では土地の液状化現象や津波が脅威だった。
県内には原発も立地する。生活圏の被災リスクを把握することが防災の第一歩となる。
中越地震は全村避難した山古志村(現長岡市)が象徴するように、中山間地の暮らし再生が課題だった。地域一丸となった復興への取り組みの中には、後世に引き継ぐべき手法も多い。
利息の運用で10年間に600億円の資金を生み出した復興基金は、創造的復興を後押しした仕組みの一つだ。
阪神大震災などの先行事例を参考にしたが、小規模な農地復旧を手当てする事業や集落の鎮守様の復旧など、住民のニーズは高いが公的資金を充てにくい事業に、柔軟に対応した。
基金事業のメニューである復興支援員制度は、被災集落に若者らを配置し、コミュニティーの存続などを支援した。制度は東日本大震災の被災地でも活用されている。
復興支援員の活動もあり、集落の住民と外部の大学生らとの交流が生まれ、現在まで続くケースもある。被災者の心の復興に寄り添うこうした取り組みは、人口縮小社会の未来図を描く作業でもあった。
被災者の要望をくみながらコミュニティー維持を重視したことも評価される。避難所や仮設住宅を集落単位で構成し、復興住宅の一部は小規模な木造住宅として集落内に造るなどした。
被災者の孤立が問題視された阪神大震災の教訓を生かした対応だった。
◆検証は被災地の責任
生活再建にあたり、被災者の選択は分かれた。集落に帰ることがよりどころになった一方で、集団移転して新たな暮らしを再構築した人々もいた。移転後も集落に通い、住民同士の絆を保つ選択もあった。
地震から20年を経て、それぞれの選択がどのような現在につながったか、歳月を経た今なら検証できることもある。
少子高齢化が進んでおり、人口減少を見据えた復興の在り方を、実例を持って発信することは「被災地責任」と言える。
南海トラフ巨大地震など広範で大規模な地震の発生が想定されている。中越地震における復興への取り組みをどう普遍化させられるか、検討を深めていくことにも意味がある。
壊れた構造物は造り直し、制度や法律は実態を踏まえて改善することはできる。しかし、失われた命は二度と取り戻すことができない。
災害を忘れないというのは、自分や大切な人らの命を守る決意を固めることでもある。
住宅の耐震性向上や大型家具の固定などは優先して心がけたい。居住地の地形や立地の特性、過去の被災履歴などは把握しておく必要がある。
関連死を防ぐため、発災後の避難については、行政も住民もしっかりと準備しなければならない。台湾やイタリアなどと比べ、避難所の環境改善が進んでいない日本の現実を重く受け止めるべきだろう。
私たちは災害が繰り返す「災間社会」を生きている。少しでも被害を小さくするための備えを徹底したい。