長岡市の長岡戦災資料館に、赤ちゃんからお年寄りまで377人の遺影が飾られている。
長岡空襲で亡くなった人々の一部だ。壁を埋めるモノクロ写真は無言のまま、見る人に戦争のむごさを訴えかける。
あの日から80年目の8月1日が巡ってきた。
犠牲者を悼み、復興に尽くした先人に感謝し、平和の大切さを改めて語り継ぐ日としたい。
米軍による空襲は1945年8月1日午後10時30分ごろ始まった。B29爆撃機125機が16万発以上の焼夷(しょうい)弾を投下した。
軍事施設や軍需工場などを狙ったのではなく、市街地への無差別爆撃だった。
空襲の正確な死者数は不明だ。模擬原爆の犠牲者と合わせ、判明しているだけで1489人に上る。犠牲者と分かった1人が、きょう新たに追加される。
猛火は市街地の8割を焼き尽くした。降り注ぐ焼夷弾で火柱が立ち、街は灼熱(しゃくねつ)に包まれた。家屋は焼け崩れ、逃げまどう人たちの行く手をふさいだ。
長岡市の殉難者名簿では平潟神社で275人、神明神社で141人が犠牲になった。柿川は折り重なる遺体で埋まった。
あの夏に何が起きたのか、実際に体験し語れる人はわずかになった。残された時間は多くない。まずは話に耳を傾け、想像力を働かせて考えることだ。
きょうからの長岡まつりは、空襲犠牲者の慰霊と復興祈願が原点にある。今夜は爆撃が始まった時刻に鎮魂の花火「白菊」3発が打ち上げられる。
2、3日の長岡花火は、空襲犠牲者への追悼とともにあり、痛ましい記憶を伝承する貴重な機会でもある。節目の年に、その原点を改めて思い起こしたい。
日本の総人口に占める戦後生まれの割合が9割に迫る中、記憶の伝承は厳しさを増している。
こうした中、空襲の真実を伝える長岡戦災資料館が果たしてきた役割は大きい。
資料館は「戦争の可視化」に力を入れてきた。焼失した市街地の地図を作成し、空襲体験画を収集した。映像や音声で記録を残す取り組みも続けている。
来春、爆撃の中心点だった坂之上町3の明治公園に隣接する建物へ移転する。遺影も常設展示となる。移転後もぜひ訪れてほしい。
資料館には今年、新たに8人の遺影が寄せられた。市外から疎開してきて犠牲になった新潟鉄道教習生の少女6人も含まれる。
80年たって、ようやく詳細が明らかになる事実もある。なぜ戦争が起き、大勢の命が奪われたのか。歴史をきちんと見つめ直し、平和の尊さを再確認したい。