吉村昭の短編小説「動く壁」は総理大臣を護衛する警察官が主人公だ。その仕事ぶりは「総理の体のまわりに肉体による防壁を作り上げていた」と描写されている

▼ベテランが新人に、心構えを説く場面がある。「おれたちの職務は、体を犠牲にする商売でな。人間だから死ぬのは誰だっていやなんだが、それが商売じゃ仕様がないんだ」

▼話を現実に移す。警察庁が要人警護に当たる警察官の熟練度を評価する制度を導入していたことが分かった。基本的なレベル1から最高位のレベル7まである。「レベル」を持たなければ、警護に携われないという

▼警護の中核を担う警察官は、SP(セキュリティー・ポリス)と呼ばれる。ある元SPは「いざという時、一歩前に出られるのがSPだ」とプロの条件を表現する。警護の対象者が聴衆とグータッチする時は常にすぐそばに立った。「狙ってくるやつと対象者の間に一直線に入り、撃たれても刺されても盾になれる」からだ

▼安倍晋三元首相の銃撃事件が起きたのは2022年7月だった。そのわずか9カ月後には岸田文雄前首相に向け、爆発物が投げ込まれた。小説と現実の差がなくなってしまったのか、と背筋が寒くなったことを思い出す

▼国民の選んだリーダーは暴力から守らなければならない。とはいえ、警察官は壁でもなければ、盾でもない。人間である。命の重さは皆同じはずだ。そもそも、事件の背景には何があるのか。孤立か、格差か。根本的な問題の解決が欠かせない。