当然のことだけれど、戦争は人間がする。だから人間のさまざまな姿が反映される。最近の本紙記事を読んで、そんなふうに思った

▼ロシア軍幹部を装ったウクライナ人男性がロシア兵の家族に電話する。「大変残念ながら、息子さんが戦死しました」。この死亡宣告はうそである。しかし、知らせを信じた家族は取り乱し、おえつが続く

▼電話したウクライナ人男性は多数のやりとりを交流サイト(SNS)に投稿している。男性のチャンネルには12万6千人を超える登録者がいる。罪悪感はないという。「侵略者のくせに自分勝手に泣く」。投稿の目的は憎悪をあおるためと語った

▼こんな記事もあった。大けがを負ったウクライナ兵が捕虜となり、手術を受けた。ロシア側は情報を聞き出そうとし、殺害をほのめかした。ある日、手術に関わった衛生兵が神妙な表情で近づいて来て「神のご加護を」と、十字架のネックレスをかけてくれた

▼理由は分からない。別のロシア兵は、こっそりと食べ物を持ってきてくれた。捕虜交換で解放された後もロシアへの怒りは消えないが、こうも思う。「全員が悪魔ではない」。つらい記憶と結びついた十字架を、今日も身に着けている

▼悪意が悪意を呼び起こすことがある。むごたらしい状況下で一筋の光が見えることもある。戦争は人間の内面を赤裸々に映す鏡でもあるのだろう。悪意があふれる中でも示される善意があるなら、そこにせめてもの希望を見いだしたい。そう考えるのは甘いのか。

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